2008年03月04日

『微熱』

川本真琴
★★★☆☆
■00年1月(26歳)■6thシングル/『gobbledygook』11曲目
■最高位13位(シングル9枚中5番目)
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

『ピカピカ』は“転向”への予感を漂わせてはいたが、聴き手はまだなんとか安心感を抱くことができた。
しかし『微熱』の醸し出す不安定な調子は、いよいよ聴き手に覚悟を迫るものだったのではないか。

民謡(?)を思わせるAメロや、琴を中心としたアレンジ。
こうした趣向をイメージチェンジの手法と片付けることは簡単である。
しかし、当時すでに並行して『gobbledygook』の制作が開始されていたことをふまえれば、
『微熱』の趣向は『gobbledygook』の趣向のモデルとして意識されていたと考えるべきではないか。
さらにいえば『微熱』は『gobbledygook』の中核となりえた作品だったのではないか。

必ずしもそうはならなかったのは、この作品がドラマの主題歌として制作された事情が理由であろう。
このことがいわば“ガードレール”となり、結果的に“健全な作品”として収まってしまったように思われるのである。

具体的には
後述するような歌詞の“陳腐さ”や、
サビの(もはやお手の物の)ポップセンスが
『gobbledygook』の中核となるには“健全”すぎたのかもしれない。
(皮肉にもむしろ『月の缶』の方が『gobbledygook』の中核たりうる。)

テーマはどうみても“例のテーマ”である。。
ドラマ主題歌用に焼き直したということだろうか。
いきおい聴き慣れたような言い回しが多い。“陳腐さ”とはこのことである。
(アルバムでは各国語で歌われた原曲を収録してもよかったのではないか?)

もっとも、『DNA』『1/2』が夏を、『桜』が春を舞台にしているのに対し、
『微熱』は冬が舞台であるため、「あたしたち」の孤立感や体温が一層引き立つという効果が出てはいる。

また1番のサビ前はコミュニケーション不全を、
2番のサビ前は「雪」で世界が覆われることでかえって“真実”が見えるというイメージを、
相変わらず高い技巧で歌い上げたりしてはいる。

しかしやはり『ピカピカ』でみせたような脱構築への意志までは感じられない。

だが実は『微熱』にはこのようなテクスト解釈の無効性を痛感させる部分が潜んでいる。
「tell me!」という叫びである。
(あるいは「撃ち抜いて」もそうかもしれない。)
これらは歌詞全体の文脈から遊離して強烈なエネルギーを放っている。
「tell me!」や「撃ち抜いて」の“言葉自体の意味”というよりむしろ“言葉自体の強度”が重く重く響いてくるのである。

テクスト解釈の無効性。意味から強度へ。
後期川本真琴の魅力の一つはおそらくこのあたりにある。
ラベル:川本真琴 微熱
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2008年02月04日

『ハート』

川本真琴
★★★★☆
■『ピカピカ』B面 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

『DNA』「今まだちっちゃいけれど きっとおっきくなるよ なんで?」
『1/2』「澄んだ水のようにやわらかく 誰よりも強くなりたい」
『10分前』「こんな身体 脱ぎ捨てて あたしが新しくなる」
『桜』「あたしたち新しくなれるの?」
『ピカピカ』「もっと強い 新しい身体 欲しい 欲しい」
川本真琴は自らの身体にひたすら強さ新しさを求め続けた。
筆者はこれを“変身願望”と呼んだが、『ハート』はまさに変身への一歩を踏み出した者への讃歌である。

「足をついたらそこで 動けないような気がしてた」
急き立てられるように前に進んできた自分。
その原動力は前に進むことへの情熱よりも止まることへの恐怖に過ぎなかった。
一方、そんな自分が「ぼんやり見てた」、「『足をついたら負け』って思い切り息吸い込ん」で泳ぎだす子供達は、軽やかで泳ぐことへの喜びにあふれている。
「夕立が洗い流す」ように目覚める彼女。

「まだどっちでもないの」

足がついたわけでもなく、ゴールについたわけでもなく、
今はまだ泳いでいる途中なのだ。
「なんで身体のまんなか いろんな色に変わってくの」
「なんで身体のまんなか いろんな形に変わってくの」

キラキラと眩しい水泡のなかでスローモーションにかかったような幻想的な感覚は、泳いでいる者のみが得られるとまどいである。

「どんどん強くなれこころまで」自己暗示をかけるようなエールと、
「そんなに遠くまで泳げない」思わずもれる不安。
二つの気持ちの交錯にも関わらず、なぜか楽しくて仕方がない気分。
珍しいホーンの活躍と、
おそらく全ての曲のなかで一番のびやかに歌われているサビの高音が
その気分を思う存分に演出している。

「飛べない翼みたい」な「ちっちゃな裸のクロール」で泳ぐ「イキツギできない子供達」。
「ずっとヘタクソ」でも「ちからいっぱい」泳ぐこと。
「イルカ」になれなくても「ちからいっぱい」泳ぐこと。
それが子供達(と、そのおしり)から得た、今の彼女の気分(ハート)なのである。

ところで
プールで泳ぐ子供達に自らを投影する、というような構図はちょっと珍しい。
多くの曲は一定の“物語”を設定し表現はその世界を通じてなされるのだが、『ハート』ではそういった“物語”性が明らかに弱い。
このことが、川本真琴自身の生の叫びをかえって強く伝えている気がする。
いつもの「あたし」が登場しないことで、かえってリアルな「あたし」が浮かび上がっている気がするのである。

『ハート』の原曲は『桜』発表後のツアー用に作られた。
むやみに“作者の意図”に踏み込むことを筆者は嫌うが、『ハート』に関してはその叫びに思わず耳を傾けてしまう。



ラベル:川本真琴 ハート
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2008年01月04日

『ピカピカ』

川本真琴
★★★★☆
■99年4月(25歳)■5thシングル/『gobbledygook』6曲目
■最高位6位(シングル9枚中3番目)
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◆

技巧に裏打ちされた幻想的世界は、以降に展開される『gobbledygook』の奇妙な世界の中でも完成度が極めて高い。皮肉にもそのことが、当初多くのファンを戸惑わせたようである。
前作『桜』から1年のブランクについては議論があるが、本作の完成度の高さを見れば、98年ツアー後の9ヶ月間にはまったく無駄がなかったといってよいのではないか。


前期シングルA面にはないたゆたうようなスローテンポのなかで、伸びやかな美しい高音と、難解な音程が不思議な雰囲気を生み出している。

歌詞は難解を極める。

あえて主題を見出すとすれば“永遠なる存在のなかの限りある存在”であろうか。

“永遠なる存在”のイメージとしての「星空」や「宇宙」。
「手を伸ばし」ても届かないもの。

一方、「月の下」で「ドクンドクン」と脈打つ「悲しい」「あたしたち」は“限りある存在”。

「ピカピカ」は“限りある存在”から“永遠なる存在”に近づくための「大事なオマジナイ」なのである。
「新しいあたし」「新しい身体」「新しい明日」を「もっと」「もっと」と求めるオマジナイ。(なお「新しい傷」ともあるが、『やきそばパン』や『桜』でも認められるように、彼女にとって「傷」は次なるステップのためのポジティブな要素なのである。)

(言うまでもなく、この“変身願望”は『10分前』を始めとして『DNA』『1/2』『桜』さらに『ハート』でも歌われる問題)

もちろん主人公は“永遠なる存在”との間で本気で葛藤しているわけではない。(このあたりが前期川本真琴と異なる。)
“永遠なる存在”への接近は「祈りを継ぐように」「神話を創るように」「抱きしめ」るというような、ある種信仰的に「愛してもら」うことを通じて宿るものなのである。

決して到達はしないけれども「あと何歩って数える」態度は、一抹の悲哀はあるけれども、絶望の影はない。
こうした“ちょっとした淋しさ”は、1番Aメロでも絵画的に描かれている。

2人に必要なものは「星空」=“永遠なるもの”だけである。
なのにそれは手に入らない。
「チョコレートのサラサラ銀紙 唇にあててキスした」ようなもどかしさ。
それでも主人公は葛藤するのではなく、ただ穏やかに「君」の腕の中で夢想するのである。軽い「鞄」で「何処でも行く」ことを。


※「仲間たち」とは何者か?
「二匹に降りそそぐ」の「匹」のニュアンスから連想するに“永遠なるもの”をもつ妖精のような存在か。(例えばPVの最後に出てくるような。)




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