2009年02月22日

『トラブルバス』

川本真琴
★★☆☆☆
■『FRAGILE』B面 
■ファン人気◇◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

ただでさえ脆い『FRAGILE』の感傷を
容赦なく粉砕する「ズバッ!ズバッ!ズバッ!」。

たしかに「身体のすみっこで」「何かが死んだ」のだろう。
しかし,それによって手に入れた「FREE」とは何か?

「騎馬隊」を追い越し,
「ストッキング」を脱ぎ棄てる。
そんな秩序や恥じらいにサヨナラを告げてバスが向かう先が「FREE」なのか?

いや,そんなものはない。

「アクセル踏む 砂埃吸う」
「くたびれたタイヤの轍が僕らのブルース」
「バンパーの凹み のぞいた君 生きてることが冗談みたいに写ってる」

「僕らのトラベリングバス」は,その道中そのものが生の本質を刻みだすのだ。
「地球が動くのを」「浴びている」
「子宮に響くのは」「素敵でしょ」
遠くを探すな,足元を見ろ,そこに真実がある,とはゲーテが好んだ言葉だが
川本真琴もまた「STONE」以来,
日常に埋まった真実を,鋭敏に掘り起こそうとする。
少なくともひっくり返った「FREE」が,
ただの「FREE」ではない「FREE」を叫ぼうとしていることは,間違いない。

そうしたイメージを
「ジミヘンとジャニス」「煙草と偏頭痛とアスピリン」で喚起させるつもりだったとしたら
川本真琴らしからぬ陳腐な手段だったかもしれない。
(4つ年下の自称自作自演屋♀に任せておけばよい。)

それでも,
遊び心を満載しながら,均整を失わないバランス感覚は,
デビュー5年目の余裕だろう。

・・・と,思わせつつも,
最後に「クスッ」と笑みを漏らされてしまうと,
我々は煙に巻かれたような気持ちになって,
ふらふらと彼女の後をついていくのである。

posted by 鹿鱈 睦馬 at 21:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月15日

『FRAGILE』

川本真琴
★★★★★
■00年4月(26歳)■7thシングル/『gobbledygook』9曲目
■最高位17位(シングル9枚中7番目)
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇

2001年1月、『fragile』という曲がチャート1位を飾った。
1996年にデビューしたELT17枚目のシングルとなるこの曲は、今もなお彼女たちの代表曲として名を残す。
そもそも2000年の邦楽シングルは、サザン『TSUNAMI』、福山雅治『桜坂』、浜崎あゆみ『SEASONS』をはじめ、珠玉のバラード曲が多く生まれた年であった。“バラード”の本質を“感傷”に求めるのであれば、まさにこれらの楽曲は恋人への感傷に満ちあふれたものであった。
しかし、2000年から2001年の邦楽を概観して、こうした“トップアーティスト”の感傷がやや浅薄に感じてしまうのは、表題の楽曲を知る“我々”にとって幸でもあり不幸でもあろう。


2000年4月、『FRAGILE』という曲がチャート17位を飾った。
1996年にデビューした川本真琴7枚目のシングルとなるこの曲は、今もなお我々をとまどわせ、よろめかせている。

ところで、このタイミングで岡村靖幸が再び現れた経緯についてはよくわからない。
2000年前後に旺盛な楽曲提供をしていた岡村靖幸からのアプローチの可能性もあるし、デビュー5年目を迎えた川本真琴が何らかの転機を求めた可能性もある。
結果的にこの曲が後の川本真琴に大きな影響をもたらしたとは決して言えないものの、“川本真琴が変わった”というとき、その決定的なターニングポイントを『FRAGILE』に認めることに異論はないだろう。(髪の色も変わったし。)

それにしても、この二人の呼吸に対しては嘆息するしかない。
それぞれの呼吸がシンクロし増幅する稀有なダイナミズムが『愛の才能』に続いて発揮されたことは、“運命の出会い”とさえ言っていいのではないか。
岡村靖幸が得意とする“甘く切ない”メロディを、川本真琴はしっかりと抱き締め、丁寧に言葉をのせていった。
『FRAGILE』の詞はわかりやすく羽のように軽く、それによって繊細なメロディは壊されない。一方で、「壊れた かけらで」や「そっと唄う どんな口唇からも」などにみられるように、節の冒頭音(こ、か/そ、ど)が強調して歌われることで、メロディがより深みを増していく部分もある。
メロディと詞の幸福な出会いである。

そして、川本真琴の歌声である。
たどたどしくも力強いその歌声。
その歌声を発する小さな身体が向き合ったのは、『愛の才能』では私的日常であったが、『FRAGILE』では私的世界にまで拡がっており、その精神はもはや紛れもなくロックでありあるいはパンクなのである。
そうした精神を秘めた歌声によって、この曲は単なるバラードで終わることを免れた。
歌も一種の説得である以上、歌い手が選ばれる歌は厳然と存在し、この曲もそのひとつなのである。(5分47秒からの全身の毛穴が開くような“叫び”を、いったい他の誰に任せられる?)
さらに、甘く切ないメロディと(L.A.産の)ストリングス中心の編成が、かえって彼女の反抗精神を際立たせている妙味。


前述のように、歌詞はわかりやすくストレートなのが印象的である。
節のひとつひとつが文字通り『FRAGILE』(=もろさ、はかなさ)な断片であり、そんな断片がそっと重ねられていく。
そしてその不確実な世界の真ん中に立ち尽くす、もっとも『FRAGILE』な自分。
しかし、そこからは悲しみや不安は感じられない。
まして凡百な人間がしばしば陥る「でも頑張るぞ」的な“逃げ”などもない。
主人公は『FRAGILE』な断片への愛おしさに包まれながら、ただ従容として裸で世界と向き合う。
筆者はこの姿勢に、彼女の表現者としての誠実さを感じるし、26歳を迎えた彼女のたしかな成熟に敬服するのである。

posted by 鹿鱈 睦馬 at 02:36| Comment(1) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

『月の缶』  

川本真琴
★★★★★+★
■『微熱』B面/『gobbledygook』8曲目 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇

「100万回目の太陽」のB面は、「グラマラスな月の缶詰め」だった。
やや乱暴なラベリングをすれば、前期川本真琴は“太陽的”で、後期川本真琴は“月的”な要素が強い。
筆者は、『ピカピカ』以降を後期川本真琴とみているが、この『ピカピカ』などは、文字通り「月の下」が舞台となっている。
もっとも、この“太陽的”“月的”という要素の定義づけは簡単ではない。
簡単ではないが、その微妙さこそが、川本真琴の世界の不思議な魅力の源なのではないか。
例えば、前期川本真琴における3部作(『DNA』『1/2』『桜』)および『ひまわり』などは、陽光に満ちた色調のなかで、「身体なら1ッコでいいのに」という無邪気な願望が、幾度となく繰り返された。そして、この願望が実は、すべての人間が抱くであろう漠たる不安感の根源との裸の格闘だったことは、今まで書いてきたとおりである。
前期川本真琴においても、B面曲を中心に陰影のある楽曲もあるが、むしろこうした例は、陰影を陰影として描く川本真琴の余裕を感じさせ、後期川本真琴のもつ漆黒とは明らかに異なる。
では、“月的”が、“暗いようで明るい”といった単純な反対概念かというと、まったく違うのだから難しい。
『gobbledygook』収録曲の検討の中で、その朧げなかたちが現れてくることを期待したいが、このアルバムにおいて形式的にも実質的にも中心となる『月の缶』が大きな鍵になることは間違いない。


夜。微かに流れる雲。
その奥に佇む月から放たれた光が地上に差し込む。
照らし出される地上と、誰かの影。その静けさは、時間さえ消し去る。
そこへ、彼女のフルートが吹き込み、異なる世界が立ち上がる。
イントロに響く異国の言葉(なぜかフランス語)は、異なる世界からのいざないだったのだ。
その世界は、どこか間の抜けたような、しかし抗し難い魅力に満ちた賑わいをみせる。
ひとり口にしていた「オムレツ」や「パスタ」が変化し、
屋外に踏み出せば、「路駐車」や「ガソリンスタンド」そして「ブロンズの天使たち」が心を宿す。
そんな奇妙な賑わいが、石川鉄男の神がかり的なアレンジと宮島哲博のミキシングにより、川本真琴の楽曲の中でも比類ない完成度をもった音で表現されている。

ところで、筆者は、(前期川本真琴の異色作である)『STONE』について、「僕」が「見たこともない世界」を自らの街の中に見出し「黒いシッポ」を育てていく物語と見立てたが、『月の缶』における「シッポで相づちを打つ」や「君のシルエットが一番長く伸びる時刻」も異なる世界への接近を表象するものとみてよいのではないか。
まどろむ「瞳」と「マニキュアの瓶」と「三日月」が一直線につながるとき、主人公は異なる世界に急接近していく。
現実世界は虚構化し、そして思考や言葉さえも無効化していく。(「口唇の外は・・・おやすみ」)

異なる世界への鍵は、言うまでもなく「グラマラスな月の缶詰め」である。
“月”。
『ピカピカ』や『LOVE&LUNA』でも登場したこの言葉を、これらの楽曲をふまえて(いつものように強引に)解釈すれば、“月”とは、
“星空(=永遠なる存在)に向けて闇を照らす光” あるいは、
“現実世界から逃亡(堕落)していった果ての即物的・刹那的な世界”である。
永遠なる存在から見るか、現実世界から見るかによって様相が一変する怪しいきらめき。それが“月”なのである。
自らは輝くことなく、太陽光によってその姿を大きく変え、ときにはその姿を隠す月に、川本真琴は尋常ではない思いを寄せた。

その“月”が詰められた缶、しかも「グラマラスな月」が詰められた缶であるから、その危険と希望に満ちたエネルギーの大きさは相当なものであろう。異なる世界が開かれるわけである。

しかし、主人公は、その缶詰めを「開けない」。
現実世界が遠ざかり、永遠なる存在(あるいは、堕落の果て)が目前に迫りつつあるにも関わらず、主人公はただ「中央分離帯を平均台みたいによろめいている」のである。
虚構化する現実世界と、永遠なる存在(=星空)の間(=「プラネタリウム」)のすみっこで、「解けないパズル ぼんやり見て」いるだけなのである。
「何処が出口かわからない」「ここが出口かもしれない」
とまどい、よろめく主人公。
なぜ、主人公は「月の缶」を開けないのか。

それは、そのよろめきの最中に「身体のどっかでざわめいてる未来をそっと感じ」ているからである。
筆者は『ピカピカ』の中で、「祈り」を通じてこそ“永遠なる存在”にアプローチできる旨書いたが、「月の缶」を抱えて「踊り続ける」こともまた「祈り」のかたちなのかもしれない。
そして、その「祈り」は“限りある存在”である主人公を、無限へとつないでいく。
「ソーダ水の泡みたいに 逆さまに流れる砂時計」

たとえ「悲しみがあとで来ても」、安易な逃亡も安易な希望も求めない。
ただ、「月の缶」自体は忌むべきものではなく、彼女が育んできた大切な宝物だから胸の中に抱えながら歩いていく。
その姿勢こそ、ひょっとしたら彼女がずっと求め続けてきた“強さ”なのではないか。
『sweet edit』では、この“強さ”が確信的な歌唱によって一層際立つ。
2分18秒からの“オーガズム”に至っては、聴き手までも覚醒させる。


月光の下、ゆらゆらと踊り続け、歩いていく主人公の姿が目に浮かぶような、奇怪にたゆたうメロディ。それは、陽気にも悲哀にも聴こえてくる。
このあまりに繊細な心は、『FRAGILE』で激しく燃え上がった以降、表面的には姿を消す。


posted by 鹿鱈 睦馬 at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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