2011年05月07日

『ドライブしようよ』

川本真琴
★☆☆☆☆
■『gobbledygook』10曲目
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

静かで穏やかな曲。
華やかな山場はなく,アルバムを通じて印象は薄い。


恋人と思しき相手に耳元でささやきかけるように歌われる。
そこで,歌われているのは,
2人の関係の蓄積を確認し,
安からぬ葛藤を経て,より強固に修復されつつある関係が,
間近に夢想される新たな縁(よすが)へと展開する予感だ。


「渋滞の八号線がずっとで,ちょっとよかったな」
と歌った『タイムマシーン』の主人公は,
「あなたとあたしはいったい何処に向かう途中だったんだろう」
と道に迷ってしまったが,
『ドライブしようよ』の主人公は,はかなくも幸せそうだ。

「夜が綺麗 まるで咲いたばかり」
序盤一節で,特異な場面設定をすます。
夜=黒を花に見立てるとすれば,それは,主人公の心象からくるものだろう。
続く“君のシャツに 色が落ちる唇”は,
そうした主人公の想いが,相手にも伝わった(共有された)かのようだ。

もっとも,その後のステンドグラスのくだりは,
川本真琴の歌にしばしば現れる“太陽と月”のイメージ,
つまり,太陽から月の世界に逃避行する二人を連想させ,
それがはかなさを感じさせる所以となる。

とはいえ,主人公の内面は,
「パズルのように割れてしまう」ステンドグラスと違って,
真夜中にも彩られる“本当のもの”であるし,
何度も問いかける「ねぇ」の優しい響きに,不安は感じられない。
「あふれている唄に紡がれている」という結びは,
2人を寿ぐ曙光の兆しである。
posted by 鹿鱈 睦馬 at 23:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月06日

『OCTOPUS THEATER』

川本真琴
★★☆☆☆
■『gobbledygook』4曲目/『ブロッサム』3曲目 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◆

全体として淡い感傷に包まれていますが,
その叙述の輪郭は意外とくっきりとしています。


季節は春。時は夕暮れ。
場所は岬が見える海辺で,主人公は水着(季節的にはまだ早い?)をまとい,サンダルをはいています。
そして,この薄暗くひらけた海辺の舞台が「THEATER」に見立てられます。


2人が腰かける「屋根のない指定席」。
空に浮かぶ月を思わせる「まぁるいスクリーン」。
スクリーンを照らし出す「映写機」。
とてもロマンチックな映画館です。


しかし,肝心の映画=2人の物語が焼き付けられているはずの「フィルム」は,切れてカラカラと乾いた音を立てています。
主人公の胸の軋みです。


途切れたフィルムは,もはや何も映し出しません。
映画の登場人物たちも沈黙します。
「ずっと 選んでた言葉 ぜんぶ いらなくなった」
「窓ガラス(どこの?車?) 曇らせた後 指先 無口になった」


語るべき物語が喪失したとき,登場人物たちの存在=主体もかすんでいきます。


「悲しい」という感情さえ,カッコ付きの「『悲しい』」であり,
それは,“かつて「悲しい」と呼んだ感情”に過ぎません。
そこには,悲壮感もありません。


「なくそうとしあった」のも,「消えていく」のも,
かつて強烈な感情のキャッチボールをしてきた“あたしとあなた”という主体なのではないでしょうか。


主体を喪失した登場人物たちは,無機化(プラスティックのフリスビーだったあたしたち)して,宇宙の中心から「宇宙の片隅」に置かれています。
(ここは,文言レベルからいろいろな解釈ができる部分だと思います。)


このような主体の喪失→無機化は,『トラブルバス』あたりから始まり,『gobbledygook』以後の作品の基調となっていくのですが,
この曲は,感傷がまだ色濃く残る点で,
(ただし,その感傷も,「夕凪」,「小糠雨」,「かたっぽ サンダル」といった巧みなメタファーで,抑制的につづられています。)
過渡的な曖昧さがあり,それがぼやけた曲調と重なって,地味だけども不思議な存在感をもっています。

posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月28日

『キャラメル』

川本真琴
★★★☆☆
■『gobbledygook』3曲目
■ファン人気◇◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇


「246沿いのファミレス」「窓に写る首都高」。
はっきりと「東京」が舞台とされています。
『LOVE&LUNA』でも「首都高」は出てきましたし,『タイムマシーン』でも「渋滞の八号線」という東京を思わせるモチーフが出てきました。
(ところで,『LOVE&LUNA』にも「首都高」という言葉がありますが,あまり必然性がない気がします。強いて言えばA面の『DNA』における郊外的なイメージに対するカウンターとしての意義でしょうか)
しかし,『キャラメル』は,夜の,静寂な,東京の一隅を思わせる空気を感じさせる点で独特です。


首都高が喩えられる「メタリックな臓器」という表現や「ウェイトレスがキッチンで眠る」という描写からは,2人以外に人の気配が感じられず,時間が止まっているかのようです。
舞台がはっきりと東京とされているだけに,その効果は大きい。
さらに,「キャラメル色の月」というポップだけど不気味な光源がそうした特異な時間と空間を決定的にしています。


構成も意識的です。
「パンケーキにしみこんだシロップ」(これは,直後の「抱き合うあたしたち」を喚起させます。)というミクロな視点から,
「246沿いのファミレス」という東京の一隅に引き,
「キャラメル色の月」というマクロな視点まで上る。
再び「窓に写る首都高」に寄せられ,眼前の「君と食べてるサラダ」まで戻る。
主人公の思索を経て,再び「キャラメル色の月・・・ロックオン!」。


月といえば,先ほどの『LOVE&LUNA』が想起されす。
退廃的な男女の1シーンを歌った点で,『キャラメル』と共通するものがあります。
ただ,『キャラメル』の主人公は,『LOVE&LUNA』の主人公のような破天荒さは,ない。
「君を失うあたしの未来」を想い,「このキスに何を誓う?」と誓いを求めているくらいです。


「ニュースが事件に気づく頃 あたしたちはもう退屈んなって」
「1秒後占う方が ずっと難しいことだって気づかない」
この2節は,「地球をはみ出すJETなモーション」をかけて,周囲を置き去りに,果ての果てまで行き着いてしまった姿でしょうか。特に印象的な部分です。


『LOVE&LUNA』では,
「あたしたち,もうループのまんまじゃいらんない」
と息巻いてたはずなのに,
「テーブルのグラスが揺れる」という不穏な兆しが「デジャブ」として立ち現れてきたところで,唐突に歌は終わります。
posted by 鹿鱈 睦馬 at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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