2008年06月15日

『FRAGILE』

川本真琴
★★★★★
■00年4月(26歳)■7thシングル/『gobbledygook』9曲目
■最高位17位(シングル9枚中7番目)
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇

2001年1月、『fragile』という曲がチャート1位を飾った。
1996年にデビューしたELT17枚目のシングルとなるこの曲は、今もなお彼女たちの代表曲として名を残す。
そもそも2000年の邦楽シングルは、サザン『TSUNAMI』、福山雅治『桜坂』、浜崎あゆみ『SEASONS』をはじめ、珠玉のバラード曲が多く生まれた年であった。“バラード”の本質を“感傷”に求めるのであれば、まさにこれらの楽曲は恋人への感傷に満ちあふれたものであった。
しかし、2000年から2001年の邦楽を概観して、こうした“トップアーティスト”の感傷がやや浅薄に感じてしまうのは、表題の楽曲を知る“我々”にとって幸でもあり不幸でもあろう。


2000年4月、『FRAGILE』という曲がチャート17位を飾った。
1996年にデビューした川本真琴7枚目のシングルとなるこの曲は、今もなお我々をとまどわせ、よろめかせている。

ところで、このタイミングで岡村靖幸が再び現れた経緯についてはよくわからない。
2000年前後に旺盛な楽曲提供をしていた岡村靖幸からのアプローチの可能性もあるし、デビュー5年目を迎えた川本真琴が何らかの転機を求めた可能性もある。
結果的にこの曲が後の川本真琴に大きな影響をもたらしたとは決して言えないものの、“川本真琴が変わった”というとき、その決定的なターニングポイントを『FRAGILE』に認めることに異論はないだろう。(髪の色も変わったし。)

それにしても、この二人の呼吸に対しては嘆息するしかない。
それぞれの呼吸がシンクロし増幅する稀有なダイナミズムが『愛の才能』に続いて発揮されたことは、“運命の出会い”とさえ言っていいのではないか。
岡村靖幸が得意とする“甘く切ない”メロディを、川本真琴はしっかりと抱き締め、丁寧に言葉をのせていった。
『FRAGILE』の詞はわかりやすく羽のように軽く、それによって繊細なメロディは壊されない。一方で、「壊れた かけらで」や「そっと唄う どんな口唇からも」などにみられるように、節の冒頭音(こ、か/そ、ど)が強調して歌われることで、メロディがより深みを増していく部分もある。
メロディと詞の幸福な出会いである。

そして、川本真琴の歌声である。
たどたどしくも力強いその歌声。
その歌声を発する小さな身体が向き合ったのは、『愛の才能』では私的日常であったが、『FRAGILE』では私的世界にまで拡がっており、その精神はもはや紛れもなくロックでありあるいはパンクなのである。
そうした精神を秘めた歌声によって、この曲は単なるバラードで終わることを免れた。
歌も一種の説得である以上、歌い手が選ばれる歌は厳然と存在し、この曲もそのひとつなのである。(5分47秒からの全身の毛穴が開くような“叫び”を、いったい他の誰に任せられる?)
さらに、甘く切ないメロディと(L.A.産の)ストリングス中心の編成が、かえって彼女の反抗精神を際立たせている妙味。


前述のように、歌詞はわかりやすくストレートなのが印象的である。
節のひとつひとつが文字通り『FRAGILE』(=もろさ、はかなさ)な断片であり、そんな断片がそっと重ねられていく。
そしてその不確実な世界の真ん中に立ち尽くす、もっとも『FRAGILE』な自分。
しかし、そこからは悲しみや不安は感じられない。
まして凡百な人間がしばしば陥る「でも頑張るぞ」的な“逃げ”などもない。
主人公は『FRAGILE』な断片への愛おしさに包まれながら、ただ従容として裸で世界と向き合う。
筆者はこの姿勢に、彼女の表現者としての誠実さを感じるし、26歳を迎えた彼女のたしかな成熟に敬服するのである。

ラベル:川本真琴 fragile
posted by 鹿鱈 睦馬 at 02:36| Comment(1) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

『月の缶』  

川本真琴
★★★★★+★
■『微熱』B面/『gobbledygook』8曲目 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇

「100万回目の太陽」のB面は、「グラマラスな月の缶詰め」だった。
やや乱暴なラベリングをすれば、前期川本真琴は“太陽的”で、後期川本真琴は“月的”な要素が強い。
筆者は、『ピカピカ』以降を後期川本真琴とみているが、この『ピカピカ』などは、文字通り「月の下」が舞台となっている。
もっとも、この“太陽的”“月的”という要素の定義づけは簡単ではない。
簡単ではないが、その微妙さこそが、川本真琴の世界の不思議な魅力の源なのではないか。
例えば、前期川本真琴における3部作(『DNA』『1/2』『桜』)および『ひまわり』などは、陽光に満ちた色調のなかで、「身体なら1ッコでいいのに」という無邪気な願望が、幾度となく繰り返された。そして、この願望が実は、すべての人間が抱くであろう漠たる不安感の根源との裸の格闘だったことは、今まで書いてきたとおりである。
前期川本真琴においても、B面曲を中心に陰影のある楽曲もあるが、むしろこうした例は、陰影を陰影として描く川本真琴の余裕を感じさせ、後期川本真琴のもつ漆黒とは明らかに異なる。
では、“月的”が、“暗いようで明るい”といった単純な反対概念かというと、まったく違うのだから難しい。
『gobbledygook』収録曲の検討の中で、その朧げなかたちが現れてくることを期待したいが、このアルバムにおいて形式的にも実質的にも中心となる『月の缶』が大きな鍵になることは間違いない。


夜。微かに流れる雲。
その奥に佇む月から放たれた光が地上に差し込む。
照らし出される地上と、誰かの影。その静けさは、時間さえ消し去る。
そこへ、彼女のフルートが吹き込み、異なる世界が立ち上がる。
イントロに響く異国の言葉(なぜかフランス語)は、異なる世界からのいざないだったのだ。
その世界は、どこか間の抜けたような、しかし抗し難い魅力に満ちた賑わいをみせる。
ひとり口にしていた「オムレツ」や「パスタ」が変化し、
屋外に踏み出せば、「路駐車」や「ガソリンスタンド」そして「ブロンズの天使たち」が心を宿す。
そんな奇妙な賑わいが、石川鉄男の神がかり的なアレンジと宮島哲博のミキシングにより、川本真琴の楽曲の中でも比類ない完成度をもった音で表現されている。

ところで、筆者は、(前期川本真琴の異色作である)『STONE』について、「僕」が「見たこともない世界」を自らの街の中に見出し「黒いシッポ」を育てていく物語と見立てたが、『月の缶』における「シッポで相づちを打つ」や「君のシルエットが一番長く伸びる時刻」も異なる世界への接近を表象するものとみてよいのではないか。
まどろむ「瞳」と「マニキュアの瓶」と「三日月」が一直線につながるとき、主人公は異なる世界に急接近していく。
現実世界は虚構化し、そして思考や言葉さえも無効化していく。(「口唇の外は・・・おやすみ」)

異なる世界への鍵は、言うまでもなく「グラマラスな月の缶詰め」である。
“月”。
『ピカピカ』や『LOVE&LUNA』でも登場したこの言葉を、これらの楽曲をふまえて(いつものように強引に)解釈すれば、“月”とは、
“星空(=永遠なる存在)に向けて闇を照らす光” あるいは、
“現実世界から逃亡(堕落)していった果ての即物的・刹那的な世界”である。
永遠なる存在から見るか、現実世界から見るかによって様相が一変する怪しいきらめき。それが“月”なのである。
自らは輝くことなく、太陽光によってその姿を大きく変え、ときにはその姿を隠す月に、川本真琴は尋常ではない思いを寄せた。

その“月”が詰められた缶、しかも「グラマラスな月」が詰められた缶であるから、その危険と希望に満ちたエネルギーの大きさは相当なものであろう。異なる世界が開かれるわけである。

しかし、主人公は、その缶詰めを「開けない」。
現実世界が遠ざかり、永遠なる存在(あるいは、堕落の果て)が目前に迫りつつあるにも関わらず、主人公はただ「中央分離帯を平均台みたいによろめいている」のである。
虚構化する現実世界と、永遠なる存在(=星空)の間(=「プラネタリウム」)のすみっこで、「解けないパズル ぼんやり見て」いるだけなのである。
「何処が出口かわからない」「ここが出口かもしれない」
とまどい、よろめく主人公。
なぜ、主人公は「月の缶」を開けないのか。

それは、そのよろめきの最中に「身体のどっかでざわめいてる未来をそっと感じ」ているからである。
筆者は『ピカピカ』の中で、「祈り」を通じてこそ“永遠なる存在”にアプローチできる旨書いたが、「月の缶」を抱えて「踊り続ける」こともまた「祈り」のかたちなのかもしれない。
そして、その「祈り」は“限りある存在”である主人公を、無限へとつないでいく。
「ソーダ水の泡みたいに 逆さまに流れる砂時計」

たとえ「悲しみがあとで来ても」、安易な逃亡も安易な希望も求めない。
ただ、「月の缶」自体は忌むべきものではなく、彼女が育んできた大切な宝物だから胸の中に抱えながら歩いていく。
その姿勢こそ、ひょっとしたら彼女がずっと求め続けてきた“強さ”なのではないか。
『sweet edit』では、この“強さ”が確信的な歌唱によって一層際立つ。
2分18秒からの“オーガズム”に至っては、聴き手までも覚醒させる。


月光の下、ゆらゆらと踊り続け、歩いていく主人公の姿が目に浮かぶような、奇怪にたゆたうメロディ。それは、陽気にも悲哀にも聴こえてくる。
このあまりに繊細な心は、『FRAGILE』で激しく燃え上がった以降、表面的には姿を消す。


ラベル:川本真琴 月の缶
posted by 鹿鱈 睦馬 at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月04日

『微熱』

川本真琴
★★★☆☆
■00年1月(26歳)■6thシングル/『gobbledygook』11曲目
■最高位13位(シングル9枚中5番目)
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

『ピカピカ』は“転向”への予感を漂わせてはいたが、聴き手はまだなんとか安心感を抱くことができた。
しかし『微熱』の醸し出す不安定な調子は、いよいよ聴き手に覚悟を迫るものだったのではないか。

民謡(?)を思わせるAメロや、琴を中心としたアレンジ。
こうした趣向をイメージチェンジの手法と片付けることは簡単である。
しかし、当時すでに並行して『gobbledygook』の制作が開始されていたことをふまえれば、
『微熱』の趣向は『gobbledygook』の趣向のモデルとして意識されていたと考えるべきではないか。
さらにいえば『微熱』は『gobbledygook』の中核となりえた作品だったのではないか。

必ずしもそうはならなかったのは、この作品がドラマの主題歌として制作された事情が理由であろう。
このことがいわば“ガードレール”となり、結果的に“健全な作品”として収まってしまったように思われるのである。

具体的には
後述するような歌詞の“陳腐さ”や、
サビの(もはやお手の物の)ポップセンスが
『gobbledygook』の中核となるには“健全”すぎたのかもしれない。
(皮肉にもむしろ『月の缶』の方が『gobbledygook』の中核たりうる。)

テーマはどうみても“例のテーマ”である。。
ドラマ主題歌用に焼き直したということだろうか。
いきおい聴き慣れたような言い回しが多い。“陳腐さ”とはこのことである。
(アルバムでは各国語で歌われた原曲を収録してもよかったのではないか?)

もっとも、『DNA』『1/2』が夏を、『桜』が春を舞台にしているのに対し、
『微熱』は冬が舞台であるため、「あたしたち」の孤立感や体温が一層引き立つという効果が出てはいる。

また1番のサビ前はコミュニケーション不全を、
2番のサビ前は「雪」で世界が覆われることでかえって“真実”が見えるというイメージを、
相変わらず高い技巧で歌い上げたりしてはいる。

しかしやはり『ピカピカ』でみせたような脱構築への意志までは感じられない。

だが実は『微熱』にはこのようなテクスト解釈の無効性を痛感させる部分が潜んでいる。
「tell me!」という叫びである。
(あるいは「撃ち抜いて」もそうかもしれない。)
これらは歌詞全体の文脈から遊離して強烈なエネルギーを放っている。
「tell me!」や「撃ち抜いて」の“言葉自体の意味”というよりむしろ“言葉自体の強度”が重く重く響いてくるのである。

テクスト解釈の無効性。意味から強度へ。
後期川本真琴の魅力の一つはおそらくこのあたりにある。
ラベル:川本真琴 微熱
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2008年02月04日

『ハート』

川本真琴
★★★★☆
■『ピカピカ』B面 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

『DNA』「今まだちっちゃいけれど きっとおっきくなるよ なんで?」
『1/2』「澄んだ水のようにやわらかく 誰よりも強くなりたい」
『10分前』「こんな身体 脱ぎ捨てて あたしが新しくなる」
『桜』「あたしたち新しくなれるの?」
『ピカピカ』「もっと強い 新しい身体 欲しい 欲しい」
川本真琴は自らの身体にひたすら強さ新しさを求め続けた。
筆者はこれを“変身願望”と呼んだが、『ハート』はまさに変身への一歩を踏み出した者への讃歌である。

「足をついたらそこで 動けないような気がしてた」
急き立てられるように前に進んできた自分。
その原動力は前に進むことへの情熱よりも止まることへの恐怖に過ぎなかった。
一方、そんな自分が「ぼんやり見てた」、「『足をついたら負け』って思い切り息吸い込ん」で泳ぎだす子供達は、軽やかで泳ぐことへの喜びにあふれている。
「夕立が洗い流す」ように目覚める彼女。

「まだどっちでもないの」

足がついたわけでもなく、ゴールについたわけでもなく、
今はまだ泳いでいる途中なのだ。
「なんで身体のまんなか いろんな色に変わってくの」
「なんで身体のまんなか いろんな形に変わってくの」

キラキラと眩しい水泡のなかでスローモーションにかかったような幻想的な感覚は、泳いでいる者のみが得られるとまどいである。

「どんどん強くなれこころまで」自己暗示をかけるようなエールと、
「そんなに遠くまで泳げない」思わずもれる不安。
二つの気持ちの交錯にも関わらず、なぜか楽しくて仕方がない気分。
珍しいホーンの活躍と、
おそらく全ての曲のなかで一番のびやかに歌われているサビの高音が
その気分を思う存分に演出している。

「飛べない翼みたい」な「ちっちゃな裸のクロール」で泳ぐ「イキツギできない子供達」。
「ずっとヘタクソ」でも「ちからいっぱい」泳ぐこと。
「イルカ」になれなくても「ちからいっぱい」泳ぐこと。
それが子供達(と、そのおしり)から得た、今の彼女の気分(ハート)なのである。

ところで
プールで泳ぐ子供達に自らを投影する、というような構図はちょっと珍しい。
多くの曲は一定の“物語”を設定し表現はその世界を通じてなされるのだが、『ハート』ではそういった“物語”性が明らかに弱い。
このことが、川本真琴自身の生の叫びをかえって強く伝えている気がする。
いつもの「あたし」が登場しないことで、かえってリアルな「あたし」が浮かび上がっている気がするのである。

『ハート』の原曲は『桜』発表後のツアー用に作られた。
むやみに“作者の意図”に踏み込むことを筆者は嫌うが、『ハート』に関してはその叫びに思わず耳を傾けてしまう。



ラベル:川本真琴 ハート
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2008年01月04日

『ピカピカ』

川本真琴
★★★★☆
■99年4月(25歳)■5thシングル/『gobbledygook』6曲目
■最高位6位(シングル9枚中3番目)
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◆

技巧に裏打ちされた幻想的世界は、以降に展開される『gobbledygook』の奇妙な世界の中でも完成度が極めて高い。皮肉にもそのことが、当初多くのファンを戸惑わせたようである。
前作『桜』から1年のブランクについては議論があるが、本作の完成度の高さを見れば、98年ツアー後の9ヶ月間にはまったく無駄がなかったといってよいのではないか。


前期シングルA面にはないたゆたうようなスローテンポのなかで、伸びやかな美しい高音と、難解な音程が不思議な雰囲気を生み出している。

歌詞は難解を極める。

あえて主題を見出すとすれば“永遠なる存在のなかの限りある存在”であろうか。

“永遠なる存在”のイメージとしての「星空」や「宇宙」。
「手を伸ばし」ても届かないもの。

一方、「月の下」で「ドクンドクン」と脈打つ「悲しい」「あたしたち」は“限りある存在”。

「ピカピカ」は“限りある存在”から“永遠なる存在”に近づくための「大事なオマジナイ」なのである。
「新しいあたし」「新しい身体」「新しい明日」を「もっと」「もっと」と求めるオマジナイ。(なお「新しい傷」ともあるが、『やきそばパン』や『桜』でも認められるように、彼女にとって「傷」は次なるステップのためのポジティブな要素なのである。)

(言うまでもなく、この“変身願望”は『10分前』を始めとして『DNA』『1/2』『桜』さらに『ハート』でも歌われる問題)

もちろん主人公は“永遠なる存在”との間で本気で葛藤しているわけではない。(このあたりが前期川本真琴と異なる。)
“永遠なる存在”への接近は「祈りを継ぐように」「神話を創るように」「抱きしめ」るというような、ある種信仰的に「愛してもら」うことを通じて宿るものなのである。

決して到達はしないけれども「あと何歩って数える」態度は、一抹の悲哀はあるけれども、絶望の影はない。
こうした“ちょっとした淋しさ”は、1番Aメロでも絵画的に描かれている。

2人に必要なものは「星空」=“永遠なるもの”だけである。
なのにそれは手に入らない。
「チョコレートのサラサラ銀紙 唇にあててキスした」ようなもどかしさ。
それでも主人公は葛藤するのではなく、ただ穏やかに「君」の腕の中で夢想するのである。軽い「鞄」で「何処でも行く」ことを。


※「仲間たち」とは何者か?
「二匹に降りそそぐ」の「匹」のニュアンスから連想するに“永遠なるもの”をもつ妖精のような存在か。(例えばPVの最後に出てくるような。)




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2007年12月20日

『ドーナッツのリング』

川本真琴
★★★☆☆
■『桜』B面 
■ファン人気◆◆◇ ■ライブ頻度◇◇◇

星空への祈りというイメージは、『1』や『ピカピカ』でも歌われている。
それぞれテーマこそ違うが『ドーナッツのリング』をはさんでその祈りは深化していく。
従来のB面特有の不安定感は影をひそめ、落ち着いた肯定感に満ちている。

画面は「満点の星の夜」→「地球」→砂浜と静かにクローズアップする。
その終着点は「一瞬の打ち上げ花火」に照らされる「今ここ」である。
それはまた「名前のない季節」や「名前のない気持ち」の終着点でもある。

結晶化された「今ここ」からは、過去(のみならず未来)への肯定感が流れ出る。
その肯定感も
「そっか こんなふうに 泣けばよかったんだ」といえるだけの
「そのままを見る瞳」
「風を聴き分けられる耳」
そして
「決心を信じたまま まっすぐ歩いていく足」
があってこそである。

「ドーナッツのリング」という叫びは
そんな肯定感に満ちた祝福の叫びであり
眩しい調和の像として立ち現れる。
彼女の歌のなかでもひときわ美しい瞬間である。


一応「ふたり」について歌うというスタンスをとってはいる。
しかし、もはや恋愛ソングという枠組みが、彼女にとってナンセンスになってきていることを皮肉にも感じさせる曲である。
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2007年12月06日

『桜』

川本真琴
★★★★★
■98年4月(24歳)■4thシングル/『gobbledygook』12曲目
■最高位3位(シングル9枚中2番目)
■ファン人気◆◆◆ ■ライブ頻度◇◇◇

「ああ!歌声が音符のうえではねまわっている!」(鹿鱈睦馬)

<はじめに>
タイトルに「さくら」を冠した名曲は数多いが、その先駆けであり、かつ頂点に君臨するのがこの曲『桜』である。

多少本気のファンであれば、『桜』が前期川本真琴(とりわけシングル曲)のひとつの完成形であり、またそれは『ひまわり』の発展形として存在することに気づくだろう。実際これらの点はしばしば指摘されている。

ただ、これらの点の背後にはちょっとした問題が潜んでいる。
読者は次のような体験をしたり、聞いたりしたことはないだろうか。
「『川本真琴』を買ったら、『桜』が入っていなくて残念だった。」
この初歩的なコメントは実は鋭く本質を衝いている。

なぜ『川本真琴』に『桜』が収録されていないのか?
『桜』が『川本真琴』の後に制作されたから?たしかに。
ではなぜ『桜』が『川本真琴』の後に制作されたのか?
それは『1/2』や『川本真琴』の勢いに乗りつつ、さらなる勢いを作るためだろう。
そのためには前期川本真琴(とりわけシングル曲)の流れを踏襲しつつ、発展させる必要があったのである。
そして“踏襲”と“発展”を見事に成功させたのが『桜』なのである。
“踏襲”はできても“発展”に失敗するアーティストが多い中、この成功は彼女の実力が本物であることを物語っている。

それだけではない。『桜』には余裕みたいなものさえ感じられる。
それもそのはずで、彼女自身『川本真琴』のなかでまったく違ったテイストの曲を作ってきた自負があるし、これからも作れるという自信があったのだろう。(実際作った。)
『1/2』の次に続く楽曲だというプレッシャーなどどこ吹く風、余裕をもって楽しく作られたことが伝わってくる曲である。

(ただ『1/2』『川本真琴』を踏襲したことが、以降の展開をもたつかせ、実際『ピカピカ』までさらに一年を費やしたことについては、否定的な見方もあるようである。踏襲自体は成功したからよかったものの、たしかに『ピカピカ』までの一年は“勢い”を失わせるには十分な時間だった。)

<曲について>
『DNA』『1/2』『ひまわり』同様、サビに向かって盛り上げていくテクニックはお手のもの。
さらには「やっぱブスな顔見られちゃうからさ」や「真っ白に敷き詰められていく」など“外し”を入れる余裕ぶり。

歌い方としては、単語を分断させるほどの抑揚・強弱が特徴的。
のばす部分も丁寧なニュアンスがこめられている。

また、前期川本真琴の完成形という観点からは以下の点が指摘できる。
1番でいえば「はしゃぐ下級生たちに〜」「春の風〜」の部分などは彼女の声がもっとも“通る”音程だし、
「「絶交だ」って〜」の早口は、まさに“川本真琴風”で、
彼女の歌声のツボがしっかり押さえられている。

そんなメロディと歌声を最大限に輝かせたのがアレンジ。
ピアノとハープで繊細な音を全体に散りばめ、光の粒があふれるような春らしく新鮮な空気感をつくっている。(シングル版ではハープがより強調されている。)
また、Aメロ・Bメロと変化をつけながらピアノ(とオルガン)を中心に勢いあるリズムを刻んでいく。
例によってこのリズムに速度が加わって彼女の魅力が遺憾なく発揮される。

<歌詞について>
“一体化願望”は正面から扱われず、“一緒にいたこと”“一緒にいたいこと”というノーマル(?)な気持ちがベースとなっている。

そんな「あたしたち」の関係がひとつの節目を迎えている。
「卒業」という舞台。
誰もが経験する舞台が具体的に描かれることで、聴き手の共感は増幅される。
前述の“ノーマルな気持ち”と相俟って、主題は聴き手に一層迫ってくる。
『DNA』『1/2』よりも“せつなさ”を感じさせる理由だろう。

彼女の情景描写力は『ひまわり』で証明済みだが、ここではさらに磨きがかかっている。
「はしゃぐ下級生たちに 押されてほどけてしまう指先」
(ここは時間の流れの比喩と見ることもできる。
なお『DNA』では「ほどけない重なる指 何度もたしかめてみた」という箇所がある。)
「今誰か使ってるの 窓際並んだ席 こっから見えるかな」以下。
(かなりの頻度でファンに引用される箇所である。)
「だって泣いちゃうと やっぱブスな顔見られちゃうからさ」
(20世紀最大のリアリズム。)
しかしなんといっても次の箇所である。
「今年で一番やさしい風が
 あたしの迷ってる一秒前 通りすぎる」
・・・詩の神様が降臨している。

<主題について>
先に筆者の解釈を示しておこう。
過ぎ去っていく時間(まさに青「春」)への戸惑いがこの歌の主題である。
「桜」とは“人生の中の一瞬の輝き”の比喩である。

『ひまわり』も似た主題を扱っているが、『ひまわり』はどちらかというと懐古的である。
(さらにいえば意外にも『やきそばパン』も似た主題を扱っている。
『やきそばパン』でも「今してる事みんなずっと覚えていられるかな」という不安や「ひとりぼっち」の覚悟の問題が登場しているのだ。)

さて、「改札」「発車のベル」に象徴されるタイムリミットが近づいている。
卒業証書が「くしゃくしゃになってた捨てるつもり」であったにも関わらず「かえっこ」したいのは、過ぎ去っていく季節がたしかに存在した証拠が欲しいのである。
「誰も気づかない」けどたしかに「あたしたちがそっと息している」「机の上」の彫られた文字もまた「あたしたち」がいた証拠なのである。

一方「あたしたち」の関係は「最後の一歩の距離」(『1/2』)からさほど変わらない「かたっぽの靴がコツンってぶつかる距離」である。
「キスしよっか」と気軽に言ってはいるものの、これもまたたしかなものを求める切実な願望なのである。(『ひまわり』でいえば「指切り」に相当する。)

そんな「あたしたち」の行動として“川本真琴の原風景”とでもいうべきシーンが立ち現れる。
“どこにも行く当てのない密着したふたりが、速度をあげて、新しい世界に飛び立とうとする”
このイメージは“帰り道”というイメージとともに、『1/2』『ひまわり』でもかたちを変えて登場する。

いくら証拠を残そうとしても、輝かしい季節の終焉を止めることはできない。
しかし主人公は「桜」を散らす「春の風」を「うらんだりしない」。
「風」とは人生の新しいステップをもたらすものなのだ。
「誰も選ばない風」「今年で一番やさしい風」。

主人公は次のステップに向けて「ひとりぼっちになる練習」をする。
が、「できないできないできないできない」。
やっぱりひとりぼっちではいられないのだ。
かけがえのない時間は「あたしとあたしの手があなたにふれた時」に集約されるから。

「何も禁止なんかしてない」神様(『1/2』)は「あたし」に勇気をくれた。
しかし今度は「創りかけてやめてしまった」。
ほっぽり出された「あたし」は呆然とするしかない。
「こんな気持ちわかんない ぜんぜん」
しかし、はじめから神様は用意などしてはくれないのである。
人生の節目との向き合いかた、そのときの大切な人との向き合い方は教えてくれないのである。
自分自身で向き合わなくてはならない。

「『いい思い出化』できない傷を信じていたい
 真っ白に敷き詰められていく」

この後再びサビが繰り返されるが、この箇所こそ『桜』のクライマックスである。
過ぎ去っていく季節を笑顔で見送ることはできない。
寂しさをあえて引き連れていく覚悟。
そんな覚悟を胸にふと目を上げると、「桜」=人生の輝かしい瞬間が、眼前に敷き詰められていくのが見えた気がする。
人生は続くのである。輝きの瞬間に満ちているのである。

主人公はおそるおそるつぶやく。
「あたしたち新しくなれるの?」


「あたしたち」はたしかな成熟とともに新しい一歩を踏み出したに違いない。
前期川本真琴の物語は、こうして美しくそして明るく幕を閉じたのである。

(『桜』おわり)

ラベル:川本真琴
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2007年11月22日

『ひまわり』

川本真琴
★★★☆☆
■『川本真琴』9曲目
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

アルバム『川本真琴』のオリジナル曲のなかでは、もっともストレートでポップな曲。メロディ、歌詞、歌い方すべてにおいて。
シングル曲のような印象を受け、一部のファンに人気があるようだ。

ハープを効果的に響かせることで、柔らかく優しい印象を与えつつ、歌全体はメリハリがあってしなやかな強さを感じさせる。
メリハリを支えているのが、弾むようなリズム感であり、さらにそれは節の最初が極端なまでに強く歌われることよって支えられている。このメリハリが楽しい気分にさせる。

こうした仕組みは、同じく花の名をタイトルに掲げる『桜』でもみられ興味深い。そういえば『ひまわり』の間奏でもピアノが力強く響いている。

ひまわりを成長する自分たちに重ねつつ、成長の眩しさと寂しさを「あの夏」へのノスタルジーとして歌う。

例によって「自動改札」、「最終のバス」、「半分こにした宿題」など意味深な暗喩が歌詞に奥行きを与えている。

登場人物として「君」が出てくるため、一応恋愛ソングとして聴くことができるだろうが、「君」を親友として聴くこともできる。

なお歌詞においても、青春ノスタルジーが主題という点で『桜』に近い。また、登場するいくつかの事物に共通のニュアンスがみられる。

後期に至って歌詞が高度に抽象化していく彼女だが、そうした表現も
「まつげの先に夕焼け小焼け 首をかしげて真似してた 君が揺れていた」
のように、一瞬の美しさを独特の角度から切り取る描写力があってこそであろう。

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2007年11月08日

『やきそばパン』

川本真琴
★★★★★
■『川本真琴』7曲目
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◆
(※コメント参照のこと)

速い。
あふれるエネルギーをギリギリのところで歌に閉じ込めた、そんな歌である。
そして当時23歳の彼女ならではの、まだ生々しい青春の匂いに満ちた歌。

Aメロ。
速さのなかで適度に刻まれるリズム。「Dear Day〜」の挿入は気持ちよく、格好いい。

Bメロにかけて歌は徐々に加速していく。この加速は主人公の気持ちの“息苦しさ”にも呼応する。
そしてその加速=息苦しさはサビで一気に開放される。
「ひとりぼっちで屋上」という叫びは、同時にその開放的なイメージを喚起させる。

サビが終わると「yeah yeah〜」とともにあっという間にAメロが再開。この叫びは歌の導入や最後の締めでも登場しており、歌全体に勢いとメリハリをつけている。

一番衝撃的な場面は言うまでもなく、「今してる事みんなずっと覚えていられるかな」以下であろう。本当に速い。
邦楽の大きなハンデは、ひとつの音に乗せられる言葉の情報量が小さいことである。ところが彼女はここで洋楽なみの言葉を詰め込んでいる。
しかもそれは決して奇を衒ったわけではなく、歌詞と速度の相関からくる必然なのである。つまり、ここは後述するような主人公の不安定な情緒が爆発する場面であって、速度が限界に達することが必要なのだ。
この限界速度が過ぎ去ったあとに始まる3度目のAメロは、限界速度の場面との対比で“退屈な日常”が際立つ。

主人公はおそらく女子高校生。
「あたし目が覚めたら」が1番と3番で挟み込むように繰り返され、“退屈な日常”の繰り返しが強調される。
友人や家族に対してはやけに醒めた理解者であるが、その醒め方がかえって淋しい。
「キラキラ」舞うチョークの粉や、「月」といった小さく輝くものと向き合うときの主人公の一瞬は、その淋しさがおそらく自覚されている瞬間である。

「屋上」は自由な空とつながる非日常的な場所であり、主人公は叫ぶ。
「やきそばパン食べたい」は、退屈な日常の淋しさやもの足りなさという思いのたけの象徴といってもいいのだろうが、あえて無意味な叫びとみても面白いだろう。
「ひとりぼっちでやれそう」というきわめて思春期的な覚悟がここで見事にはまっている。

「リップクリームくらいのガードで壊れそになりながら」「光の中進化していく」「この星のこの場所」=“あたしの日常”。
ここでは日常が柔らかいサナギのように変化していく予感が現れている。
そんな予感に直面し、主人公の情緒は前述のように爆発する。

3番。再び日常。しかしテーマは微妙に変化している。
ここでは戻れないレールというイメージから「退屈な人生」が想起され、行き場のない不安、少女にはまだあまりにも漠然とした不安が立ちこめる。
「ひとりぼっちでやれそう」とは叫ぶものの、「本当はよくわかんない」。

ある意味救いのない深い主題を抱えながら、一方でそれを感じさせない軽快な明るさがあり、さらにそれらをすさまじいスピードが貫くことで、見事に完結している。
アルバム『川本真琴』のなかでは、別格の存在である。
posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月25日

『タイムマシーン』

川本真琴
★★☆☆☆
■『川本真琴』6曲目
■ファン人気◆◆◆ ■ライブ頻度◆◇◇

『川本真琴』唯一のバラード。
同時に彼女の曲のなかで一番素直なラブソング。

本作のようなしっとりとした曲は、他にも『1』や『ドーナッツのリング』などがある。
それぞれ、『1/2』や『桜』のB面であり、また本作が『川本真琴』の真ん中に置かれていることからわかるように、こうした淋しさのある曲は、前期川本真琴のもう一つの顔である。

淋しさといってもまったく沈んでしまうわけではない。
『タイムマシーン』の場合も、Aメロでのリズミカルな早口がほんのりと明るさを感じさせる。
もっともこの明るさが、Bメロそしてサビへと高まる、胸が締め付けられるような切なさを一層響かせる布石となるのだが。

歌詞に関しては、「渋滞」「十代」や「明日」「あたし」というように遊びつつも、
「いつまでも終わらないような 夏休みみたいな夕立だね」
「窓をつたう雨の粒みたいに 線香花火の雫みたいに」
というような、夏の雨に前にした澄んだ比喩が美しい。

舞台はガールフレンドが待っている男とのドライブの帰り道。
主人公は「上手に帰って友達になれる努力」をしようとしているいじらしい女の子。(『愛の才能』とは正反対。。)
このあたりが広く共感を呼んだのか。
このいじらしさと、ビブラートのかからない彼女の歌声との抜群の相性を聴かせてくれるのも、この歌の醍醐味である。

“あたしたち”にさえなりきれなかったそんな「二人」の「もう1ッコ」の可能性が『タイムマシーン』に託されている。

このようにいつもの歌と違った趣をもちながらも、後半でいつもの本音がつい漏れるのだった。
「ひとつになったらおっこちちゃうの?」
「ひとりぼっちでいなくちゃだめなの?」
posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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