2010年09月06日

『OCTOPUS THEATER』

川本真琴
★★☆☆☆
■『gobbledygook』4曲目/『ブロッサム』3曲目 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◆

全体として淡い感傷に包まれていますが,
その叙述の輪郭は意外とくっきりとしています。


季節は春。時は夕暮れ。
場所は岬が見える海辺で,主人公は水着(季節的にはまだ早い?)をまとい,サンダルをはいています。
そして,この薄暗くひらけた海辺の舞台が「THEATER」に見立てられます。


2人が腰かける「屋根のない指定席」。
空に浮かぶ月を思わせる「まぁるいスクリーン」。
スクリーンを照らし出す「映写機」。
とてもロマンチックな映画館です。


しかし,肝心の映画=2人の物語が焼き付けられているはずの「フィルム」は,切れてカラカラと乾いた音を立てています。
主人公の胸の軋みです。


途切れたフィルムは,もはや何も映し出しません。
映画の登場人物たちも沈黙します。
「ずっと 選んでた言葉 ぜんぶ いらなくなった」
「窓ガラス(どこの?車?) 曇らせた後 指先 無口になった」


語るべき物語が喪失したとき,登場人物たちの存在=主体もかすんでいきます。


「悲しい」という感情さえ,カッコ付きの「『悲しい』」であり,
それは,“かつて「悲しい」と呼んだ感情”に過ぎません。
そこには,悲壮感もありません。


「なくそうとしあった」のも,「消えていく」のも,
かつて強烈な感情のキャッチボールをしてきた“あたしとあなた”という主体なのではないでしょうか。


主体を喪失した登場人物たちは,無機化(プラスティックのフリスビーだったあたしたち)して,宇宙の中心から「宇宙の片隅」に置かれています。
(ここは,文言レベルからいろいろな解釈ができる部分だと思います。)


このような主体の喪失→無機化は,『トラブルバス』あたりから始まり,『gobbledygook』以後の作品の基調となっていくのですが,
この曲は,感傷がまだ色濃く残る点で,
(ただし,その感傷も,「夕凪」,「小糠雨」,「かたっぽ サンダル」といった巧みなメタファーで,抑制的につづられています。)
過渡的な曖昧さがあり,それがぼやけた曲調と重なって,地味だけども不思議な存在感をもっています。

posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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