2008年04月04日

『月の缶』  

川本真琴
★★★★★+★
■『微熱』B面/『gobbledygook』8曲目 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇

「100万回目の太陽」のB面は、「グラマラスな月の缶詰め」だった。
やや乱暴なラベリングをすれば、前期川本真琴は“太陽的”で、後期川本真琴は“月的”な要素が強い。
筆者は、『ピカピカ』以降を後期川本真琴とみているが、この『ピカピカ』などは、文字通り「月の下」が舞台となっている。
もっとも、この“太陽的”“月的”という要素の定義づけは簡単ではない。
簡単ではないが、その微妙さこそが、川本真琴の世界の不思議な魅力の源なのではないか。
例えば、前期川本真琴における3部作(『DNA』『1/2』『桜』)および『ひまわり』などは、陽光に満ちた色調のなかで、「身体なら1ッコでいいのに」という無邪気な願望が、幾度となく繰り返された。そして、この願望が実は、すべての人間が抱くであろう漠たる不安感の根源との裸の格闘だったことは、今まで書いてきたとおりである。
前期川本真琴においても、B面曲を中心に陰影のある楽曲もあるが、むしろこうした例は、陰影を陰影として描く川本真琴の余裕を感じさせ、後期川本真琴のもつ漆黒とは明らかに異なる。
では、“月的”が、“暗いようで明るい”といった単純な反対概念かというと、まったく違うのだから難しい。
『gobbledygook』収録曲の検討の中で、その朧げなかたちが現れてくることを期待したいが、このアルバムにおいて形式的にも実質的にも中心となる『月の缶』が大きな鍵になることは間違いない。


夜。微かに流れる雲。
その奥に佇む月から放たれた光が地上に差し込む。
照らし出される地上と、誰かの影。その静けさは、時間さえ消し去る。
そこへ、彼女のフルートが吹き込み、異なる世界が立ち上がる。
イントロに響く異国の言葉(なぜかフランス語)は、異なる世界からのいざないだったのだ。
その世界は、どこか間の抜けたような、しかし抗し難い魅力に満ちた賑わいをみせる。
ひとり口にしていた「オムレツ」や「パスタ」が変化し、
屋外に踏み出せば、「路駐車」や「ガソリンスタンド」そして「ブロンズの天使たち」が心を宿す。
そんな奇妙な賑わいが、石川鉄男の神がかり的なアレンジと宮島哲博のミキシングにより、川本真琴の楽曲の中でも比類ない完成度をもった音で表現されている。

ところで、筆者は、(前期川本真琴の異色作である)『STONE』について、「僕」が「見たこともない世界」を自らの街の中に見出し「黒いシッポ」を育てていく物語と見立てたが、『月の缶』における「シッポで相づちを打つ」や「君のシルエットが一番長く伸びる時刻」も異なる世界への接近を表象するものとみてよいのではないか。
まどろむ「瞳」と「マニキュアの瓶」と「三日月」が一直線につながるとき、主人公は異なる世界に急接近していく。
現実世界は虚構化し、そして思考や言葉さえも無効化していく。(「口唇の外は・・・おやすみ」)

異なる世界への鍵は、言うまでもなく「グラマラスな月の缶詰め」である。
“月”。
『ピカピカ』や『LOVE&LUNA』でも登場したこの言葉を、これらの楽曲をふまえて(いつものように強引に)解釈すれば、“月”とは、
“星空(=永遠なる存在)に向けて闇を照らす光” あるいは、
“現実世界から逃亡(堕落)していった果ての即物的・刹那的な世界”である。
永遠なる存在から見るか、現実世界から見るかによって様相が一変する怪しいきらめき。それが“月”なのである。
自らは輝くことなく、太陽光によってその姿を大きく変え、ときにはその姿を隠す月に、川本真琴は尋常ではない思いを寄せた。

その“月”が詰められた缶、しかも「グラマラスな月」が詰められた缶であるから、その危険と希望に満ちたエネルギーの大きさは相当なものであろう。異なる世界が開かれるわけである。

しかし、主人公は、その缶詰めを「開けない」。
現実世界が遠ざかり、永遠なる存在(あるいは、堕落の果て)が目前に迫りつつあるにも関わらず、主人公はただ「中央分離帯を平均台みたいによろめいている」のである。
虚構化する現実世界と、永遠なる存在(=星空)の間(=「プラネタリウム」)のすみっこで、「解けないパズル ぼんやり見て」いるだけなのである。
「何処が出口かわからない」「ここが出口かもしれない」
とまどい、よろめく主人公。
なぜ、主人公は「月の缶」を開けないのか。

それは、そのよろめきの最中に「身体のどっかでざわめいてる未来をそっと感じ」ているからである。
筆者は『ピカピカ』の中で、「祈り」を通じてこそ“永遠なる存在”にアプローチできる旨書いたが、「月の缶」を抱えて「踊り続ける」こともまた「祈り」のかたちなのかもしれない。
そして、その「祈り」は“限りある存在”である主人公を、無限へとつないでいく。
「ソーダ水の泡みたいに 逆さまに流れる砂時計」

たとえ「悲しみがあとで来ても」、安易な逃亡も安易な希望も求めない。
ただ、「月の缶」自体は忌むべきものではなく、彼女が育んできた大切な宝物だから胸の中に抱えながら歩いていく。
その姿勢こそ、ひょっとしたら彼女がずっと求め続けてきた“強さ”なのではないか。
『sweet edit』では、この“強さ”が確信的な歌唱によって一層際立つ。
2分18秒からの“オーガズム”に至っては、聴き手までも覚醒させる。


月光の下、ゆらゆらと踊り続け、歩いていく主人公の姿が目に浮かぶような、奇怪にたゆたうメロディ。それは、陽気にも悲哀にも聴こえてくる。
このあまりに繊細な心は、『FRAGILE』で激しく燃え上がった以降、表面的には姿を消す。


ラベル:川本真琴 月の缶
posted by 鹿鱈 睦馬 at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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