2007年12月27日

音楽批評の困難

ここまで、およそ半分の楽曲を「評論」してきた。

ざっと読み返してみると、はっきりいって非常にわかりづらい。

楽曲のポイントを分析・抽出して、それを刻むように書いていくというのが自然に出来上がったスタイルなのだが、文章が断片的になりすぎるきらいがある。

また、答えなどないのに答え探しをしているのではないか、と疑念を抱くこともしばしばであった。
とりわけ後期川本真琴に至っては「解釈」という姿勢自体に再検討が必要になってきそうだ。


さて、予想していたことではあるが、歌詞以外の要素の扱いは困難を極めた。

その第一の理由は「論じるための用語や理論を知らない」に尽きる。
が、そもそもこのブログは一般的な音楽批評に対するアンチテーゼもあったため、あまり気にしていない。
とりわけ音楽用語を駆使してわかったような気にさせる音楽批評は、筆者がやる必要性はない。(だから、できないし。)
ただし、筆者自身は彼女の音楽に関する理論的な説明には強い関心があるので、誰かわかりやすく書いてください。。

第二の理由は、やはり語彙が少ない。
言葉によって言葉を超えたものを表現することこそ、評論の真骨頂なのだが、書くたびに己の未熟さに打ちのめされる。

とはいえ、川本真琴の歌い様への情熱はいまだ消える気配はない。
これからも辛抱強くお付き合いください。
ラベル:音楽批評
posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:36| Comment(2) | TrackBack(0) | いきさつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月20日

『ドーナッツのリング』

川本真琴
★★★☆☆
■『桜』B面 
■ファン人気◆◆◇ ■ライブ頻度◇◇◇

星空への祈りというイメージは、『1』や『ピカピカ』でも歌われている。
それぞれテーマこそ違うが『ドーナッツのリング』をはさんでその祈りは深化していく。
従来のB面特有の不安定感は影をひそめ、落ち着いた肯定感に満ちている。

画面は「満点の星の夜」→「地球」→砂浜と静かにクローズアップする。
その終着点は「一瞬の打ち上げ花火」に照らされる「今ここ」である。
それはまた「名前のない季節」や「名前のない気持ち」の終着点でもある。

結晶化された「今ここ」からは、過去(のみならず未来)への肯定感が流れ出る。
その肯定感も
「そっか こんなふうに 泣けばよかったんだ」といえるだけの
「そのままを見る瞳」
「風を聴き分けられる耳」
そして
「決心を信じたまま まっすぐ歩いていく足」
があってこそである。

「ドーナッツのリング」という叫びは
そんな肯定感に満ちた祝福の叫びであり
眩しい調和の像として立ち現れる。
彼女の歌のなかでもひときわ美しい瞬間である。


一応「ふたり」について歌うというスタンスをとってはいる。
しかし、もはや恋愛ソングという枠組みが、彼女にとってナンセンスになってきていることを皮肉にも感じさせる曲である。
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2007年12月13日

『Do They know It'Chrisms?』

という曲がカバーされているようです。
http://www.realrox.com/kazuyoshi_baba/yagiarea/
配信リリースという形をとっています。
どういう形であれ、彼女の声が届くというのはうれしいものです。
ジャケ(?)の笑顔も楽しそうでいい。


「冬」の川本真琴といえば『微熱』です。

あのPVのように冬空のもと携帯音楽プレーヤーで『微熱』を聴くと、この曲自体が「微熱」をもって小さな昂揚感を与えてくれます。
せかすようなイントロに始まり、「tell me!」で終わるあの曲。
どこかさびしさを秘めているのはなぜでしょうか。

夏が終わるたびに何かをし忘れたようなさびしい気持ちになるのはありふれた気持ちなのかもしれませんが、この曲は冬におけるそんな焦燥感を歌っている気もします。

寒い冬の空気のなかでそんな焦燥感が「微熱」として、ぽっと灯る。
皆さんも冬のひとり散歩のなかでぜひもう一度聴いてみてください。


posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

『桜』

川本真琴
★★★★★
■98年4月(24歳)■4thシングル/『gobbledygook』12曲目
■最高位3位(シングル9枚中2番目)
■ファン人気◆◆◆ ■ライブ頻度◇◇◇

「ああ!歌声が音符のうえではねまわっている!」(鹿鱈睦馬)

<はじめに>
タイトルに「さくら」を冠した名曲は数多いが、その先駆けであり、かつ頂点に君臨するのがこの曲『桜』である。

多少本気のファンであれば、『桜』が前期川本真琴(とりわけシングル曲)のひとつの完成形であり、またそれは『ひまわり』の発展形として存在することに気づくだろう。実際これらの点はしばしば指摘されている。

ただ、これらの点の背後にはちょっとした問題が潜んでいる。
読者は次のような体験をしたり、聞いたりしたことはないだろうか。
「『川本真琴』を買ったら、『桜』が入っていなくて残念だった。」
この初歩的なコメントは実は鋭く本質を衝いている。

なぜ『川本真琴』に『桜』が収録されていないのか?
『桜』が『川本真琴』の後に制作されたから?たしかに。
ではなぜ『桜』が『川本真琴』の後に制作されたのか?
それは『1/2』や『川本真琴』の勢いに乗りつつ、さらなる勢いを作るためだろう。
そのためには前期川本真琴(とりわけシングル曲)の流れを踏襲しつつ、発展させる必要があったのである。
そして“踏襲”と“発展”を見事に成功させたのが『桜』なのである。
“踏襲”はできても“発展”に失敗するアーティストが多い中、この成功は彼女の実力が本物であることを物語っている。

それだけではない。『桜』には余裕みたいなものさえ感じられる。
それもそのはずで、彼女自身『川本真琴』のなかでまったく違ったテイストの曲を作ってきた自負があるし、これからも作れるという自信があったのだろう。(実際作った。)
『1/2』の次に続く楽曲だというプレッシャーなどどこ吹く風、余裕をもって楽しく作られたことが伝わってくる曲である。

(ただ『1/2』『川本真琴』を踏襲したことが、以降の展開をもたつかせ、実際『ピカピカ』までさらに一年を費やしたことについては、否定的な見方もあるようである。踏襲自体は成功したからよかったものの、たしかに『ピカピカ』までの一年は“勢い”を失わせるには十分な時間だった。)

<曲について>
『DNA』『1/2』『ひまわり』同様、サビに向かって盛り上げていくテクニックはお手のもの。
さらには「やっぱブスな顔見られちゃうからさ」や「真っ白に敷き詰められていく」など“外し”を入れる余裕ぶり。

歌い方としては、単語を分断させるほどの抑揚・強弱が特徴的。
のばす部分も丁寧なニュアンスがこめられている。

また、前期川本真琴の完成形という観点からは以下の点が指摘できる。
1番でいえば「はしゃぐ下級生たちに〜」「春の風〜」の部分などは彼女の声がもっとも“通る”音程だし、
「「絶交だ」って〜」の早口は、まさに“川本真琴風”で、
彼女の歌声のツボがしっかり押さえられている。

そんなメロディと歌声を最大限に輝かせたのがアレンジ。
ピアノとハープで繊細な音を全体に散りばめ、光の粒があふれるような春らしく新鮮な空気感をつくっている。(シングル版ではハープがより強調されている。)
また、Aメロ・Bメロと変化をつけながらピアノ(とオルガン)を中心に勢いあるリズムを刻んでいく。
例によってこのリズムに速度が加わって彼女の魅力が遺憾なく発揮される。

<歌詞について>
“一体化願望”は正面から扱われず、“一緒にいたこと”“一緒にいたいこと”というノーマル(?)な気持ちがベースとなっている。

そんな「あたしたち」の関係がひとつの節目を迎えている。
「卒業」という舞台。
誰もが経験する舞台が具体的に描かれることで、聴き手の共感は増幅される。
前述の“ノーマルな気持ち”と相俟って、主題は聴き手に一層迫ってくる。
『DNA』『1/2』よりも“せつなさ”を感じさせる理由だろう。

彼女の情景描写力は『ひまわり』で証明済みだが、ここではさらに磨きがかかっている。
「はしゃぐ下級生たちに 押されてほどけてしまう指先」
(ここは時間の流れの比喩と見ることもできる。
なお『DNA』では「ほどけない重なる指 何度もたしかめてみた」という箇所がある。)
「今誰か使ってるの 窓際並んだ席 こっから見えるかな」以下。
(かなりの頻度でファンに引用される箇所である。)
「だって泣いちゃうと やっぱブスな顔見られちゃうからさ」
(20世紀最大のリアリズム。)
しかしなんといっても次の箇所である。
「今年で一番やさしい風が
 あたしの迷ってる一秒前 通りすぎる」
・・・詩の神様が降臨している。

<主題について>
先に筆者の解釈を示しておこう。
過ぎ去っていく時間(まさに青「春」)への戸惑いがこの歌の主題である。
「桜」とは“人生の中の一瞬の輝き”の比喩である。

『ひまわり』も似た主題を扱っているが、『ひまわり』はどちらかというと懐古的である。
(さらにいえば意外にも『やきそばパン』も似た主題を扱っている。
『やきそばパン』でも「今してる事みんなずっと覚えていられるかな」という不安や「ひとりぼっち」の覚悟の問題が登場しているのだ。)

さて、「改札」「発車のベル」に象徴されるタイムリミットが近づいている。
卒業証書が「くしゃくしゃになってた捨てるつもり」であったにも関わらず「かえっこ」したいのは、過ぎ去っていく季節がたしかに存在した証拠が欲しいのである。
「誰も気づかない」けどたしかに「あたしたちがそっと息している」「机の上」の彫られた文字もまた「あたしたち」がいた証拠なのである。

一方「あたしたち」の関係は「最後の一歩の距離」(『1/2』)からさほど変わらない「かたっぽの靴がコツンってぶつかる距離」である。
「キスしよっか」と気軽に言ってはいるものの、これもまたたしかなものを求める切実な願望なのである。(『ひまわり』でいえば「指切り」に相当する。)

そんな「あたしたち」の行動として“川本真琴の原風景”とでもいうべきシーンが立ち現れる。
“どこにも行く当てのない密着したふたりが、速度をあげて、新しい世界に飛び立とうとする”
このイメージは“帰り道”というイメージとともに、『1/2』『ひまわり』でもかたちを変えて登場する。

いくら証拠を残そうとしても、輝かしい季節の終焉を止めることはできない。
しかし主人公は「桜」を散らす「春の風」を「うらんだりしない」。
「風」とは人生の新しいステップをもたらすものなのだ。
「誰も選ばない風」「今年で一番やさしい風」。

主人公は次のステップに向けて「ひとりぼっちになる練習」をする。
が、「できないできないできないできない」。
やっぱりひとりぼっちではいられないのだ。
かけがえのない時間は「あたしとあたしの手があなたにふれた時」に集約されるから。

「何も禁止なんかしてない」神様(『1/2』)は「あたし」に勇気をくれた。
しかし今度は「創りかけてやめてしまった」。
ほっぽり出された「あたし」は呆然とするしかない。
「こんな気持ちわかんない ぜんぜん」
しかし、はじめから神様は用意などしてはくれないのである。
人生の節目との向き合いかた、そのときの大切な人との向き合い方は教えてくれないのである。
自分自身で向き合わなくてはならない。

「『いい思い出化』できない傷を信じていたい
 真っ白に敷き詰められていく」

この後再びサビが繰り返されるが、この箇所こそ『桜』のクライマックスである。
過ぎ去っていく季節を笑顔で見送ることはできない。
寂しさをあえて引き連れていく覚悟。
そんな覚悟を胸にふと目を上げると、「桜」=人生の輝かしい瞬間が、眼前に敷き詰められていくのが見えた気がする。
人生は続くのである。輝きの瞬間に満ちているのである。

主人公はおそるおそるつぶやく。
「あたしたち新しくなれるの?」


「あたしたち」はたしかな成熟とともに新しい一歩を踏み出したに違いない。
前期川本真琴の物語は、こうして美しくそして明るく幕を閉じたのである。

(『桜』おわり)

ラベル:川本真琴
posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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