2011年05月07日

『ドライブしようよ』

川本真琴
★☆☆☆☆
■『gobbledygook』10曲目
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

静かで穏やかな曲。
華やかな山場はなく,アルバムを通じて印象は薄い。


恋人と思しき相手に耳元でささやきかけるように歌われる。
そこで,歌われているのは,
2人の関係の蓄積を確認し,
安からぬ葛藤を経て,より強固に修復されつつある関係が,
間近に夢想される新たな縁(よすが)へと展開する予感だ。


「渋滞の八号線がずっとで,ちょっとよかったな」
と歌った『タイムマシーン』の主人公は,
「あなたとあたしはいったい何処に向かう途中だったんだろう」
と道に迷ってしまったが,
『ドライブしようよ』の主人公は,はかなくも幸せそうだ。

「夜が綺麗 まるで咲いたばかり」
序盤一節で,特異な場面設定をすます。
夜=黒を花に見立てるとすれば,それは,主人公の心象からくるものだろう。
続く“君のシャツに 色が落ちる唇”は,
そうした主人公の想いが,相手にも伝わった(共有された)かのようだ。

もっとも,その後のステンドグラスのくだりは,
川本真琴の歌にしばしば現れる“太陽と月”のイメージ,
つまり,太陽から月の世界に逃避行する二人を連想させ,
それがはかなさを感じさせる所以となる。

とはいえ,主人公の内面は,
「パズルのように割れてしまう」ステンドグラスと違って,
真夜中にも彩られる“本当のもの”であるし,
何度も問いかける「ねぇ」の優しい響きに,不安は感じられない。
「あふれている唄に紡がれている」という結びは,
2人を寿ぐ曙光の兆しである。
posted by 鹿鱈 睦馬 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月06日

『OCTOPUS THEATER』

川本真琴
★★☆☆☆
■『gobbledygook』4曲目/『ブロッサム』3曲目 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◆

全体として淡い感傷に包まれていますが,
その叙述の輪郭は意外とくっきりとしています。


季節は春。時は夕暮れ。
場所は岬が見える海辺で,主人公は水着(季節的にはまだ早い?)をまとい,サンダルをはいています。
そして,この薄暗くひらけた海辺の舞台が「THEATER」に見立てられます。


2人が腰かける「屋根のない指定席」。
空に浮かぶ月を思わせる「まぁるいスクリーン」。
スクリーンを照らし出す「映写機」。
とてもロマンチックな映画館です。


しかし,肝心の映画=2人の物語が焼き付けられているはずの「フィルム」は,切れてカラカラと乾いた音を立てています。
主人公の胸の軋みです。


途切れたフィルムは,もはや何も映し出しません。
映画の登場人物たちも沈黙します。
「ずっと 選んでた言葉 ぜんぶ いらなくなった」
「窓ガラス(どこの?車?) 曇らせた後 指先 無口になった」


語るべき物語が喪失したとき,登場人物たちの存在=主体もかすんでいきます。


「悲しい」という感情さえ,カッコ付きの「『悲しい』」であり,
それは,“かつて「悲しい」と呼んだ感情”に過ぎません。
そこには,悲壮感もありません。


「なくそうとしあった」のも,「消えていく」のも,
かつて強烈な感情のキャッチボールをしてきた“あたしとあなた”という主体なのではないでしょうか。


主体を喪失した登場人物たちは,無機化(プラスティックのフリスビーだったあたしたち)して,宇宙の中心から「宇宙の片隅」に置かれています。
(ここは,文言レベルからいろいろな解釈ができる部分だと思います。)


このような主体の喪失→無機化は,『トラブルバス』あたりから始まり,『gobbledygook』以後の作品の基調となっていくのですが,
この曲は,感傷がまだ色濃く残る点で,
(ただし,その感傷も,「夕凪」,「小糠雨」,「かたっぽ サンダル」といった巧みなメタファーで,抑制的につづられています。)
過渡的な曖昧さがあり,それがぼやけた曲調と重なって,地味だけども不思議な存在感をもっています。

posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月28日

『キャラメル』

川本真琴
★★★☆☆
■『gobbledygook』3曲目
■ファン人気◇◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇


「246沿いのファミレス」「窓に写る首都高」。
はっきりと「東京」が舞台とされています。
『LOVE&LUNA』でも「首都高」は出てきましたし,『タイムマシーン』でも「渋滞の八号線」という東京を思わせるモチーフが出てきました。
(ところで,『LOVE&LUNA』にも「首都高」という言葉がありますが,あまり必然性がない気がします。強いて言えばA面の『DNA』における郊外的なイメージに対するカウンターとしての意義でしょうか)
しかし,『キャラメル』は,夜の,静寂な,東京の一隅を思わせる空気を感じさせる点で独特です。


首都高が喩えられる「メタリックな臓器」という表現や「ウェイトレスがキッチンで眠る」という描写からは,2人以外に人の気配が感じられず,時間が止まっているかのようです。
舞台がはっきりと東京とされているだけに,その効果は大きい。
さらに,「キャラメル色の月」というポップだけど不気味な光源がそうした特異な時間と空間を決定的にしています。


構成も意識的です。
「パンケーキにしみこんだシロップ」(これは,直後の「抱き合うあたしたち」を喚起させます。)というミクロな視点から,
「246沿いのファミレス」という東京の一隅に引き,
「キャラメル色の月」というマクロな視点まで上る。
再び「窓に写る首都高」に寄せられ,眼前の「君と食べてるサラダ」まで戻る。
主人公の思索を経て,再び「キャラメル色の月・・・ロックオン!」。


月といえば,先ほどの『LOVE&LUNA』が想起されす。
退廃的な男女の1シーンを歌った点で,『キャラメル』と共通するものがあります。
ただ,『キャラメル』の主人公は,『LOVE&LUNA』の主人公のような破天荒さは,ない。
「君を失うあたしの未来」を想い,「このキスに何を誓う?」と誓いを求めているくらいです。


「ニュースが事件に気づく頃 あたしたちはもう退屈んなって」
「1秒後占う方が ずっと難しいことだって気づかない」
この2節は,「地球をはみ出すJETなモーション」をかけて,周囲を置き去りに,果ての果てまで行き着いてしまった姿でしょうか。特に印象的な部分です。


『LOVE&LUNA』では,
「あたしたち,もうループのまんまじゃいらんない」
と息巻いてたはずなのに,
「テーブルのグラスが揺れる」という不穏な兆しが「デジャブ」として立ち現れてきたところで,唐突に歌は終わります。
posted by 鹿鱈 睦馬 at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月22日

そのとき,歴史が動いた。

5145ai60-pL__SS500_.jpg川本真琴 feat. Tiger Fake Fur
『音楽の世界へようこそ』

2010年02月19日発売
価格:3,150円(税込)
MYRD-7

1. 音楽の世界へようこそ
2. 何処にある?
3. 夜の生態系
4. アイラブユー
5. 石の生活
6. 鳥
7. ウグイスー
8. クローゼット
9. 縄文
10. へんね
11. 海
12. ポンタゴ
13. マギーズファームへようこそ
14. 小鳥の歌


素晴らしい。
本当に素晴らしいです。
あなたの音楽を形にして残すことは,とても意味があることです。

デビューから15年目ですか。
ジャケットもいいですね。
素朴な佇まいの中に,
デビューから6年間の疾走と
その後の,申し訳ないけど,
小さな閉塞,を抜けた(何ですかその背中の向こうの闇は)
清々しさが(何ですかその傘は)
伝わってきて。
それでいて,その渋い表情。

世間があなたを再び知ることに
われわれは,やるせない歯がゆき喜びに耐えねばなりませんが
あなたが熟成させてきた音楽に
陶酔する日々が待ち遠しくてなりません。

いやっほう☆


posted by 鹿鱈 睦馬 at 18:18| Comment(2) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月27日

『gobbledygook』

川本真琴
■01年3月(27歳)■2ndアルバム全15曲
■最高位13位(アルバム2枚中2番目)


 今こうして,このアルバムのジャケットやブックレットの写真を眺めていると,それらがこのアルバムの世界観を見事なまでに表現していると感じる。

 ジャケット表の色とりどりにむしられた花びらが曲目の華やかさと荒々しさを想起させる反面,ジャケット裏のどこかいたずらっぽい表情で振り返るようにそんな花びらを眺める彼女は,冷めた余裕を感じさせつつ,そのまま立ち去ってしまいそうだ。

 ブックレットでは,モジャモジャの金髪頭にメルヘンチックな衣装と仕草が,アルバムのエキセントリックな世界観とともに,やはりどこかアイロニックな雰囲気も漂わせる。


 繚乱する曲目は,石川鉄男の曲と安原兵衛の曲,それ以外の曲に大別される。

 石川鉄男の曲は,『桜』『ピカピカ』『微熱』のシングル曲3曲で,アルバムを通して聴く中で正直ほっとさせるポジションにある。
(少なくとも当時は)我々がよく知っている「川本真琴」だからだ。

 安原兵衛の曲は,インスト曲とヴォーカル曲に区別される。4つのインストは,考えれば考えるほどわからなくなる不可思議なものだが,例えば『ハーツソーバ』は,『ピカピカ』への鮮やかな導入役になっている(気がする)など,その意味を語ろうとすれば語れなくもない存在感があり,アルバム全体の雰囲気をスモークのように醸し作っていることは疑いない。
残る5つのヴォーカル曲については,それぞれの項目に譲るが,総じて感じるのは,このアルバムの功罪が彼女自身よりも安原兵衛の手によるところが大きいのではないかという点である。


 ブックレットの最後にある“愛してます かずりんより”という自筆を,「川本真琴からの解放」とみるのは易いし,このアルバム自体を彼女の本領発揮とみるのもおそらく正しい。

 しかし,そうであるからこそ,着地点としての,そして真に川本オリジナルな,「3枚目」が必要だったのではないか。
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2009年05月17日

『ギミーシェルター』

川本真琴
★★★★☆
■01年3月(27歳)■8thシングル/『gobbledygook』2曲目
■最高位58位(シングル9枚中9番目)
■ファン人気◇◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇

 なめたジャケットといい,ギターベイダーといい,川本真琴が何らかのブレイクスルーを図ったことは明らかである。
 金髪にエレキギターを抱えて,いつになくぶっきらぼうに歌う姿は,ファンの度肝を抜き,そのうち少なくないファンが姿を消したことは間違いないだろう。

 もっとも,本作のような路線は,すでに『微熱』や『FRAGILE』のB面あたりから始まっており,いずれ前面に出てくることは,十分に予測できたことだった。

 本作が成功しているのは,従前のB面のような暗喩が極力排されているため,聴き手もその勢いに心地よくのっていけるという点であろう。
 一方で,その一見単純なメッセージにも,「うたかたはじけ飛ぶ どんな約束でもかまんない」に象徴されているように,彼女の永遠のテーマである“関係性の不安”が背後に潜んでいるため,陽気さと勢いに満たされた「NO SECURITY!」「ギミーシェルター!」の叫びにもどこか深みが漂う。

 また,主体を「乙女」と明確に設定している点も,『トラブルバス』で「子宮」がクローズアップされている点に連なり,特異である。
 川本真琴が歌ってきたのは,“恋愛”というよりも“関係”であったため,女性特有の湿度を感じることは稀であった。
 それゆえ,“女であること”をサラリと,押しつけがましくなく歌うこのスタンスは新鮮であり興味深いのだが,その後の楽曲ではあまり展開されていないようだ。
 

 問題作『gobbledygook』を通してみても,異彩を放っており,事実上先頭に置かざるを得ない代物である。
「あなた&あたし『生存者』」
 果たしてどれだけのファンが生き残ったのだろうか。(※けっこう生き残ってます。)
posted by 鹿鱈 睦馬 at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月22日

『トラブルバス』

川本真琴
★★☆☆☆
■『FRAGILE』B面 
■ファン人気◇◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

ただでさえ脆い『FRAGILE』の感傷を
容赦なく粉砕する「ズバッ!ズバッ!ズバッ!」。

たしかに「身体のすみっこで」「何かが死んだ」のだろう。
しかし,それによって手に入れた「FREE」とは何か?

「騎馬隊」を追い越し,
「ストッキング」を脱ぎ棄てる。
そんな秩序や恥じらいにサヨナラを告げてバスが向かう先が「FREE」なのか?

いや,そんなものはない。

「アクセル踏む 砂埃吸う」
「くたびれたタイヤの轍が僕らのブルース」
「バンパーの凹み のぞいた君 生きてることが冗談みたいに写ってる」

「僕らのトラベリングバス」は,その道中そのものが生の本質を刻みだすのだ。
「地球が動くのを」「浴びている」
「子宮に響くのは」「素敵でしょ」
遠くを探すな,足元を見ろ,そこに真実がある,とはゲーテが好んだ言葉だが
川本真琴もまた「STONE」以来,
日常に埋まった真実を,鋭敏に掘り起こそうとする。
少なくともひっくり返った「FREE」が,
ただの「FREE」ではない「FREE」を叫ぼうとしていることは,間違いない。

そうしたイメージを
「ジミヘンとジャニス」「煙草と偏頭痛とアスピリン」で喚起させるつもりだったとしたら
川本真琴らしからぬ陳腐な手段だったかもしれない。
(4つ年下の自称自作自演屋♀に任せておけばよい。)

それでも,
遊び心を満載しながら,均整を失わないバランス感覚は,
デビュー5年目の余裕だろう。

・・・と,思わせつつも,
最後に「クスッ」と笑みを漏らされてしまうと,
我々は煙に巻かれたような気持ちになって,
ふらふらと彼女の後をついていくのである。

posted by 鹿鱈 睦馬 at 21:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月15日

『FRAGILE』

川本真琴
★★★★★
■00年4月(26歳)■7thシングル/『gobbledygook』9曲目
■最高位17位(シングル9枚中7番目)
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇

2001年1月、『fragile』という曲がチャート1位を飾った。
1996年にデビューしたELT17枚目のシングルとなるこの曲は、今もなお彼女たちの代表曲として名を残す。
そもそも2000年の邦楽シングルは、サザン『TSUNAMI』、福山雅治『桜坂』、浜崎あゆみ『SEASONS』をはじめ、珠玉のバラード曲が多く生まれた年であった。“バラード”の本質を“感傷”に求めるのであれば、まさにこれらの楽曲は恋人への感傷に満ちあふれたものであった。
しかし、2000年から2001年の邦楽を概観して、こうした“トップアーティスト”の感傷がやや浅薄に感じてしまうのは、表題の楽曲を知る“我々”にとって幸でもあり不幸でもあろう。


2000年4月、『FRAGILE』という曲がチャート17位を飾った。
1996年にデビューした川本真琴7枚目のシングルとなるこの曲は、今もなお我々をとまどわせ、よろめかせている。

ところで、このタイミングで岡村靖幸が再び現れた経緯についてはよくわからない。
2000年前後に旺盛な楽曲提供をしていた岡村靖幸からのアプローチの可能性もあるし、デビュー5年目を迎えた川本真琴が何らかの転機を求めた可能性もある。
結果的にこの曲が後の川本真琴に大きな影響をもたらしたとは決して言えないものの、“川本真琴が変わった”というとき、その決定的なターニングポイントを『FRAGILE』に認めることに異論はないだろう。(髪の色も変わったし。)

それにしても、この二人の呼吸に対しては嘆息するしかない。
それぞれの呼吸がシンクロし増幅する稀有なダイナミズムが『愛の才能』に続いて発揮されたことは、“運命の出会い”とさえ言っていいのではないか。
岡村靖幸が得意とする“甘く切ない”メロディを、川本真琴はしっかりと抱き締め、丁寧に言葉をのせていった。
『FRAGILE』の詞はわかりやすく羽のように軽く、それによって繊細なメロディは壊されない。一方で、「壊れた かけらで」や「そっと唄う どんな口唇からも」などにみられるように、節の冒頭音(こ、か/そ、ど)が強調して歌われることで、メロディがより深みを増していく部分もある。
メロディと詞の幸福な出会いである。

そして、川本真琴の歌声である。
たどたどしくも力強いその歌声。
その歌声を発する小さな身体が向き合ったのは、『愛の才能』では私的日常であったが、『FRAGILE』では私的世界にまで拡がっており、その精神はもはや紛れもなくロックでありあるいはパンクなのである。
そうした精神を秘めた歌声によって、この曲は単なるバラードで終わることを免れた。
歌も一種の説得である以上、歌い手が選ばれる歌は厳然と存在し、この曲もそのひとつなのである。(5分47秒からの全身の毛穴が開くような“叫び”を、いったい他の誰に任せられる?)
さらに、甘く切ないメロディと(L.A.産の)ストリングス中心の編成が、かえって彼女の反抗精神を際立たせている妙味。


前述のように、歌詞はわかりやすくストレートなのが印象的である。
節のひとつひとつが文字通り『FRAGILE』(=もろさ、はかなさ)な断片であり、そんな断片がそっと重ねられていく。
そしてその不確実な世界の真ん中に立ち尽くす、もっとも『FRAGILE』な自分。
しかし、そこからは悲しみや不安は感じられない。
まして凡百な人間がしばしば陥る「でも頑張るぞ」的な“逃げ”などもない。
主人公は『FRAGILE』な断片への愛おしさに包まれながら、ただ従容として裸で世界と向き合う。
筆者はこの姿勢に、彼女の表現者としての誠実さを感じるし、26歳を迎えた彼女のたしかな成熟に敬服するのである。

posted by 鹿鱈 睦馬 at 02:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

『月の缶』  

川本真琴
★★★★★+★
■『微熱』B面/『gobbledygook』8曲目 
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◆◇

「100万回目の太陽」のB面は、「グラマラスな月の缶詰め」だった。
やや乱暴なラベリングをすれば、前期川本真琴は“太陽的”で、後期川本真琴は“月的”な要素が強い。
筆者は、『ピカピカ』以降を後期川本真琴とみているが、この『ピカピカ』などは、文字通り「月の下」が舞台となっている。
もっとも、この“太陽的”“月的”という要素の定義づけは簡単ではない。
簡単ではないが、その微妙さこそが、川本真琴の世界の不思議な魅力の源なのではないか。
例えば、前期川本真琴における3部作(『DNA』『1/2』『桜』)および『ひまわり』などは、陽光に満ちた色調のなかで、「身体なら1ッコでいいのに」という無邪気な願望が、幾度となく繰り返された。そして、この願望が実は、すべての人間が抱くであろう漠たる不安感の根源との裸の格闘だったことは、今まで書いてきたとおりである。
前期川本真琴においても、B面曲を中心に陰影のある楽曲もあるが、むしろこうした例は、陰影を陰影として描く川本真琴の余裕を感じさせ、後期川本真琴のもつ漆黒とは明らかに異なる。
では、“月的”が、“暗いようで明るい”といった単純な反対概念かというと、まったく違うのだから難しい。
『gobbledygook』収録曲の検討の中で、その朧げなかたちが現れてくることを期待したいが、このアルバムにおいて形式的にも実質的にも中心となる『月の缶』が大きな鍵になることは間違いない。


夜。微かに流れる雲。
その奥に佇む月から放たれた光が地上に差し込む。
照らし出される地上と、誰かの影。その静けさは、時間さえ消し去る。
そこへ、彼女のフルートが吹き込み、異なる世界が立ち上がる。
イントロに響く異国の言葉(なぜかフランス語)は、異なる世界からのいざないだったのだ。
その世界は、どこか間の抜けたような、しかし抗し難い魅力に満ちた賑わいをみせる。
ひとり口にしていた「オムレツ」や「パスタ」が変化し、
屋外に踏み出せば、「路駐車」や「ガソリンスタンド」そして「ブロンズの天使たち」が心を宿す。
そんな奇妙な賑わいが、石川鉄男の神がかり的なアレンジと宮島哲博のミキシングにより、川本真琴の楽曲の中でも比類ない完成度をもった音で表現されている。

ところで、筆者は、(前期川本真琴の異色作である)『STONE』について、「僕」が「見たこともない世界」を自らの街の中に見出し「黒いシッポ」を育てていく物語と見立てたが、『月の缶』における「シッポで相づちを打つ」や「君のシルエットが一番長く伸びる時刻」も異なる世界への接近を表象するものとみてよいのではないか。
まどろむ「瞳」と「マニキュアの瓶」と「三日月」が一直線につながるとき、主人公は異なる世界に急接近していく。
現実世界は虚構化し、そして思考や言葉さえも無効化していく。(「口唇の外は・・・おやすみ」)

異なる世界への鍵は、言うまでもなく「グラマラスな月の缶詰め」である。
“月”。
『ピカピカ』や『LOVE&LUNA』でも登場したこの言葉を、これらの楽曲をふまえて(いつものように強引に)解釈すれば、“月”とは、
“星空(=永遠なる存在)に向けて闇を照らす光” あるいは、
“現実世界から逃亡(堕落)していった果ての即物的・刹那的な世界”である。
永遠なる存在から見るか、現実世界から見るかによって様相が一変する怪しいきらめき。それが“月”なのである。
自らは輝くことなく、太陽光によってその姿を大きく変え、ときにはその姿を隠す月に、川本真琴は尋常ではない思いを寄せた。

その“月”が詰められた缶、しかも「グラマラスな月」が詰められた缶であるから、その危険と希望に満ちたエネルギーの大きさは相当なものであろう。異なる世界が開かれるわけである。

しかし、主人公は、その缶詰めを「開けない」。
現実世界が遠ざかり、永遠なる存在(あるいは、堕落の果て)が目前に迫りつつあるにも関わらず、主人公はただ「中央分離帯を平均台みたいによろめいている」のである。
虚構化する現実世界と、永遠なる存在(=星空)の間(=「プラネタリウム」)のすみっこで、「解けないパズル ぼんやり見て」いるだけなのである。
「何処が出口かわからない」「ここが出口かもしれない」
とまどい、よろめく主人公。
なぜ、主人公は「月の缶」を開けないのか。

それは、そのよろめきの最中に「身体のどっかでざわめいてる未来をそっと感じ」ているからである。
筆者は『ピカピカ』の中で、「祈り」を通じてこそ“永遠なる存在”にアプローチできる旨書いたが、「月の缶」を抱えて「踊り続ける」こともまた「祈り」のかたちなのかもしれない。
そして、その「祈り」は“限りある存在”である主人公を、無限へとつないでいく。
「ソーダ水の泡みたいに 逆さまに流れる砂時計」

たとえ「悲しみがあとで来ても」、安易な逃亡も安易な希望も求めない。
ただ、「月の缶」自体は忌むべきものではなく、彼女が育んできた大切な宝物だから胸の中に抱えながら歩いていく。
その姿勢こそ、ひょっとしたら彼女がずっと求め続けてきた“強さ”なのではないか。
『sweet edit』では、この“強さ”が確信的な歌唱によって一層際立つ。
2分18秒からの“オーガズム”に至っては、聴き手までも覚醒させる。


月光の下、ゆらゆらと踊り続け、歩いていく主人公の姿が目に浮かぶような、奇怪にたゆたうメロディ。それは、陽気にも悲哀にも聴こえてくる。
このあまりに繊細な心は、『FRAGILE』で激しく燃え上がった以降、表面的には姿を消す。


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2008年03月04日

『微熱』

川本真琴
★★★☆☆
■00年1月(26歳)■6thシングル/『gobbledygook』11曲目
■最高位13位(シングル9枚中5番目)
■ファン人気◆◇◇ ■ライブ頻度◆◇◇

『ピカピカ』は“転向”への予感を漂わせてはいたが、聴き手はまだなんとか安心感を抱くことができた。
しかし『微熱』の醸し出す不安定な調子は、いよいよ聴き手に覚悟を迫るものだったのではないか。

民謡(?)を思わせるAメロや、琴を中心としたアレンジ。
こうした趣向をイメージチェンジの手法と片付けることは簡単である。
しかし、当時すでに並行して『gobbledygook』の制作が開始されていたことをふまえれば、
『微熱』の趣向は『gobbledygook』の趣向のモデルとして意識されていたと考えるべきではないか。
さらにいえば『微熱』は『gobbledygook』の中核となりえた作品だったのではないか。

必ずしもそうはならなかったのは、この作品がドラマの主題歌として制作された事情が理由であろう。
このことがいわば“ガードレール”となり、結果的に“健全な作品”として収まってしまったように思われるのである。

具体的には
後述するような歌詞の“陳腐さ”や、
サビの(もはやお手の物の)ポップセンスが
『gobbledygook』の中核となるには“健全”すぎたのかもしれない。
(皮肉にもむしろ『月の缶』の方が『gobbledygook』の中核たりうる。)

テーマはどうみても“例のテーマ”である。。
ドラマ主題歌用に焼き直したということだろうか。
いきおい聴き慣れたような言い回しが多い。“陳腐さ”とはこのことである。
(アルバムでは各国語で歌われた原曲を収録してもよかったのではないか?)

もっとも、『DNA』『1/2』が夏を、『桜』が春を舞台にしているのに対し、
『微熱』は冬が舞台であるため、「あたしたち」の孤立感や体温が一層引き立つという効果が出てはいる。

また1番のサビ前はコミュニケーション不全を、
2番のサビ前は「雪」で世界が覆われることでかえって“真実”が見えるというイメージを、
相変わらず高い技巧で歌い上げたりしてはいる。

しかしやはり『ピカピカ』でみせたような脱構築への意志までは感じられない。

だが実は『微熱』にはこのようなテクスト解釈の無効性を痛感させる部分が潜んでいる。
「tell me!」という叫びである。
(あるいは「撃ち抜いて」もそうかもしれない。)
これらは歌詞全体の文脈から遊離して強烈なエネルギーを放っている。
「tell me!」や「撃ち抜いて」の“言葉自体の意味”というよりむしろ“言葉自体の強度”が重く重く響いてくるのである。

テクスト解釈の無効性。意味から強度へ。
後期川本真琴の魅力の一つはおそらくこのあたりにある。
posted by 鹿鱈 睦馬 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする